平頼綱
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平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。元寇(蒙古襲来)時の鎌倉幕府8代執権北条時宗、9代執権北条貞時の寄合衆、執事(内管領)、侍所所司で、貞時の乳母父である。父は歴代執権の執事を務めた平盛時[2]。御内人の筆頭格として北条得宗家の専制体制を補佐した。
- ^ 『保暦間記』では長崎円喜について、「正応ニ打タレシ平左衛門入道カ甥光綱子」(正応6年(1293年)の平禅門の乱で討たれた平左衛門入道杲円(頼綱)の甥で光綱の子)としている。この記述が正しければ頼綱と光綱は兄弟ということになる。
- ^ 頼綱の職務は盛綱の後継者と呼べるものだが、盛綱の卒去と頼綱の政治活動開始まで間隔が空きすぎるため、頼綱の父は盛時で、盛時が盛綱の子、盛綱は頼綱の祖父と推定される(細川重男説)。
- ^ 森幸夫「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994年)。森は資宗の生年を文永3年(1266年)としているが、弘安2年(1279年)9月に発生した鎌倉期日蓮宗弾圧として著名な熱原法難を伝える『弟子分帳』に「飯沼判官十三歳」(数え年)とある(細川、2000年、P.183)ことから、逆算すると生年は文永4年(1267年)が正確である。
- ^ 『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)による。登場箇所は、建長8年正月4日・9日条「平新左衛門三郎」、正嘉2年(1258年)1月11日条「平新左衛門三郎頼綱」、弘長3年(1263年)正月1日条「平新左衛門尉頼綱」の4箇所である。
- ^ 高木豊『増補改訂 日蓮――その行動と思想』90頁
- ^ ただし、惟康の立親王と追放は朝廷内部の対立に伴うもの(大覚寺統と持明院統が分立し、大覚寺統が惟康の取り込みを図り、持明院統がその排除を求めた)とする説もある(曽我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) P238-242.)。
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