鎌倉幕府滅亡後・子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 04:25 UTC 版)
鎌倉幕府滅亡後に建武の新政が開始された後も、北条氏の残党は津軽や日向国、伊予国など各地で散発的に反乱を起こした。1335年(建武2年)に京都に潜伏していた高時の弟・北条泰家(時興)が公家の西園寺公宗と政権転覆を計画するが未然に発覚する。公宗は後醍醐天皇暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃亡して各地の北条残党に挙兵を呼びかける。北条氏の守護国のひとつであった信濃国で高時の子・時行らが挙兵し、中先代の乱を起こす。時行軍は足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破り、鎌倉を占領する。鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義は、幽閉されていた護良親王が時行に担がれる事を警戒し、家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させる。尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反する。その後、時行は南朝から朝敵免除を受け、観応の擾乱の際に武蔵国で再度挙兵するが、尊氏に敗れて捕らえられ斬られた。 時行の子孫は横井氏を称し、南朝方について戦ったと言われているが、詳細ははっきりせず、定説及び確証はない。この横井氏の子孫は尾張国海西郡(現・愛西市)赤目城主となり、江戸時代は尾張藩家老を務めた。また一族からは俳人として著名な横井也有、幕末の肥後熊本藩士で越前福井藩松平家に派遣され活躍した横井小楠などが出ている。また、戦国大名である後北条氏の家臣である横井氏もこの一族とされ、伊勢(北条)氏綱の正室である養珠院殿は同氏の出身とする説も出されている。また賤ヶ岳の七本槍の平野長泰も横井氏の末裔と名乗り、その子孫は交代寄合を経て明治時代に男爵を賜った。 また、最後の執権赤橋守時の妹登子は足利尊氏の正室として鎌倉幕府滅亡後も生き残り、尊氏との間に産まれた足利義詮および足利基氏以降の足利将軍家・鎌倉公方~古河公方家へと赤橋流北条氏の血は受け継がれている。
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