鍬形蕙斎時代とは? わかりやすく解説

鍬形蕙斎時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:09 UTC 版)

北尾政美」の記事における「鍬形蕙斎時代」の解説

寛政6年1794年5月26日31歳津山藩御用絵師大役人格10扶持別に絵の具料3両支給)となり剃髪鍬形蕙斎紹真(つぐざね)と称した。この抜擢には、親交のあった森島中良が関わっていた可能性指摘されている。翌寛政7年1795年)には略画絵手本略画式』を著し、これに続いて鳥獣略画式』、『人物略画式』、『山水略画式』、『魚貝略画式』、『草花略画式』を刊行したまた、京都に住む岸派絵師横山華山影響を受け、俯瞰的名所絵発案して江戸一目図」(日本浮世絵博物館所蔵)や「日本一目図」を手がけた。 寛政8年1796年以降は、黄表紙挿絵手がけることを止めもっぱら肉筆浮世絵描いた。翌9年1797年)からは、江戸幕府奥絵師狩野惟信師事する文化年間(1804-18年)には、松平定信求め肉筆図巻近世職人尽絵詞」(東京国立博物館所蔵)「東都繁盛図巻」(千葉市美術館所蔵)「黒髪山縁起絵巻」(寛永寺所蔵)「吉原十二時絵詞」(原本未確認模本が数点確認される)などの作品を手がけている。また画業のほかに、気象天業きしょうてんごう)の戯作号で、黄表紙神伝路考由』(2巻寛政4年1792年)、歌川豊国画)を出したり、森島中良狂歌学び麦野大蛇麿(むぎのおろちまろ)と号したという。御用絵師になった後も江戸で暮らしたが、文化7年1810年47歳の時、1年津山赴いている。文政7年1824年)没。享年61墓所中野区沼袋密蔵院法名は彩淡蕙斎居士鍬形家は2代目赤子(紹意)、3代目鍬形勝永(蕙)と続き赤子箕作秋坪宇田川興斎蘭学者交流しペリー像や西洋文物書き残している。

※この「鍬形蕙斎時代」の解説は、「北尾政美」の解説の一部です。
「鍬形蕙斎時代」を含む「北尾政美」の記事については、「北尾政美」の概要を参照ください。

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