鍬形蕙斎時代
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寛政6年(1794年)5月26日、31歳で津山藩の御用絵師(大役人格、10人扶持、別に絵の具料3両支給)となり剃髪、鍬形蕙斎紹真(つぐざね)と称した。この抜擢には、親交のあった森島中良が関わっていた可能性が指摘されている。翌寛政7年(1795年)には略画の絵手本『略画式』を著し、これに続いて『鳥獣略画式』、『人物略画式』、『山水略画式』、『魚貝略画式』、『草花略画式』を刊行した。また、京都に住む岸派の絵師・横山華山の影響を受け、俯瞰的な名所絵を発案して「江戸一目図」(日本浮世絵博物館所蔵)や「日本一目図」を手がけた。 寛政8年(1796年)以降は、黄表紙の挿絵を手がけることを止め、もっぱら肉筆浮世絵を描いた。翌9年(1797年)からは、江戸幕府奥絵師の狩野惟信に師事する。文化年間(1804-18年)には、松平定信の求めで肉筆図巻「近世職人尽絵詞」(東京国立博物館所蔵)「東都繁盛図巻」(千葉市美術館所蔵)「黒髪山縁起絵巻」(寛永寺所蔵)「吉原十二時絵詞」(原本未確認、模本が数点確認される)などの作品を手がけている。また画業のほかに、気象天業(きしょうてんごう)の戯作号で、黄表紙『神伝路考由』(2巻、寛政4年(1792年)、歌川豊国画)を出したり、森島中良に狂歌を学び、麦野大蛇麿(むぎのおろちまろ)と号したという。御用絵師になった後も江戸で暮らしたが、文化7年(1810年)47歳の時、1年弱津山に赴いている。文政7年(1824年)没。享年61。墓所は中野区沼袋の密蔵院、法名は彩淡蕙斎居士。 鍬形家は2代目赤子(紹意)、3代目鍬形勝永(蕙林)と続き、赤子は箕作秋坪や宇田川興斎ら蘭学者と交流し、ペリー像や西洋の文物を書き残している。
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