錦城の戦いとは? わかりやすく解説

錦城の戦い(891年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 09:34 UTC 版)

太祖王建の戦い」の記事における「錦城の戦い(891年)」の解説

錦城の戦い(891年)(クムソンのたたかい)は、キョンフォン除こうとしたスダル軍と、防ぐキョンフォン軍との戦い。場所は錦城現在の全羅南道羅州市)。錦城赴任したキョンフォンは、密貿易取り締まり始めた密貿易生業とするスダルはこれに反抗する。スダルは夜陰乗じて積み荷運ぼうとするがキョンフォン軍は伏兵をもって、これを撃退する次にスダルは、偽の宴会キョンフォン暗殺目論むが、返り討ち遭ってしまう。 スダル軍の指揮官はスダル、チョンネ、コムチ、マクセ。キョンフォン軍の指揮官キョンフォン、ヌンエ、ヌンファン、チュ・ホジョキム・チョンパン将軍兵力はスダル軍5百、キョンフォン軍3百。 スダル軍が動くことを知ったキョンフォン軍は、軍師であるヌンファンの策に従って迎撃態勢整える。スダル軍は、官庁目指し進軍開始した官庁において、スダル軍とキョンフォン軍は戦い開始したキョンフォン軍はしばらく戦った後、官庁から兵を退いた。これはスダル軍を誘引するヌンファンの策だった。スダルは兵1百をチョンネに残し官庁を守らせた。スダルは残りの兵を連れてキョンフォン軍を追ったチュ・ホジョがスダル軍を山道へと誘引し、スダル軍が山道入ったところをキム・チョンパン将軍が上から火矢投石浴びせた。これを逃れたスダル軍に、ヌンエ、チュ・ホジョ襲い掛かり、さらに後方からキム・チョンパン将軍攻撃した。マクセはチュ・ホジョに、コムチはキム・チョンによって負傷した。スダルは落ち延びたが、待ち受けていたキョンフォンにより退路断たれた。スダルは自害しようとするが、これを一喝したキョンフォン心から完敗認めて降伏した被害はスダル軍はコムチ、マクセが負傷、兵の被害不明キョンフォン軍の被害不明。 この戦い勝利により、キョンフォン西南海の実権掌握した。スダルはキョンフォン義兄弟契り交わし忠誠誓った

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錦城の戦い(903年)

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太祖王建の戦い」の記事における「錦城の戦い(903年)」の解説

錦城の戦い(第一次新安郡海戦)は、交易水運要地である錦城奇襲し奪取しようとする王建率い後高句麗軍と錦城を守る後百済の能昌(ヌンチャン=スダル)との戦い重税苦しむ呉多憐(オ・ダリン)は、王建使者である王式廉(ワン・シンニョム)らが持ってきたチャン・ボゴ宝剣と娘トヨン説得により後高句麗につくことにする。オ・ダリンが後高句麗着いたことを知ったチョンネもひそかに後高句麗につくことにし、そ知らぬ顔をスダルに対して装い、対新羅戦の先鋒になれなかったスダルは、チェ・スンウが対後高句麗備え自分西南海に置いたことが理解できず軍を解散してしまい、残ったのは錦城山城の1000人と錦城500人だけであった後高句麗王建)軍の指揮官は、大将軍王建(ワン・ゴン)、洪儒(ホン・ユ)、金楽(キム・ラク)、金言(キン・オン)、宗希(チョン・ヒ)、桓宣吉(ファン・ソンギル)、伊昕巌(イ・フナム)、卜智謙(ポク・チギョム)で戦艦百数隻、水軍部隊は、歯(イ・チ)が率い、2,100人、歩兵3,000人のほか錦城支援軍3,000人や騎兵などであった後百済軍の指揮官は、能昌(ヌンチャン=スダル)で錦城山城に主力1000人、錦城500であった後高句麗軍は、貞州港を出発し二日錦城至り満潮のときに呉氏トヨン)の合図でいっきに錦城上陸桓宣吉(ファン・ソンギル)などの率い部隊木浦(ムクポ)、務安ムアン)など海岸地方制圧。聡礼(チョンネ)、呉多憐(オ・ダリン)の支援を受け、錦城占領。スダルの立てこもる錦城山城を包囲した洪儒(ホン・ユ)を先鋒側面桓宣吉(ファン・ソンギル)が率いて錦城山城を攻撃した。スダルの善戦苦戦し大きな損害出してひきかえさざるをえなかったが、錦城山城のスダルの兵力500人を割る損害をだしており、康州新羅戦った後百済軍が引き返す1日前に錦城山城を陥落させ、錦城地方獲得した被害は、後高句麗不明後百済全滅で、一人生き残ったスダルはキョンフォン厳罰願った。 この戦いで後高句麗は、「百済中心に後高句麗の旗を立てる」のに成功しクンイェは、錦城羅州となずけた(現在の全羅道の「羅」の由来)。王建は、呉氏トヨン)を第二夫人として得ることとなった。なお、この後後百済錦城二度と取り戻すことができなくなるがそれは後の話である。

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