錦城の戦い(891年)
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錦城の戦い(891年)(クムソンのたたかい)は、キョンフォンを除こうとしたスダル軍と、防ぐキョンフォン軍との戦い。場所は錦城(現在の全羅南道羅州市)。錦城に赴任したキョンフォンは、密貿易の取り締まりを始めた。密貿易を生業とするスダルはこれに反抗する。スダルは夜陰に乗じて、積み荷を運ぼうとするがキョンフォン軍は伏兵をもって、これを撃退する。次にスダルは、偽の宴会でキョンフォンの暗殺を目論むが、返り討ちに遭ってしまう。 スダル軍の指揮官はスダル、チョンネ、コムチ、マクセ。キョンフォン軍の指揮官はキョンフォン、ヌンエ、ヌンファン、チュ・ホジョ、キム・チョン、パン将軍。兵力はスダル軍5百、キョンフォン軍3百。 スダル軍が動くことを知ったキョンフォン軍は、軍師であるヌンファンの策に従って迎撃の態勢を整える。スダル軍は、官庁を目指して進軍を開始した。官庁において、スダル軍とキョンフォン軍は戦いを開始した。キョンフォン軍はしばらく戦った後、官庁から兵を退いた。これはスダル軍を誘引するヌンファンの策だった。スダルは兵1百をチョンネに残し、官庁を守らせた。スダルは残りの兵を連れて、キョンフォン軍を追った。チュ・ホジョがスダル軍を山道へと誘引し、スダル軍が山道へ入ったところをキム・チョン、パン将軍が上から火矢・投石を浴びせた。これを逃れたスダル軍に、ヌンエ、チュ・ホジョが襲い掛かり、さらに後方からキム・チョン、パン将軍が攻撃した。マクセはチュ・ホジョに、コムチはキム・チョンによって負傷した。スダルは落ち延びたが、待ち受けていたキョンフォンにより退路を断たれた。スダルは自害しようとするが、これを一喝したキョンフォンに心からの完敗を認めて降伏した。 被害はスダル軍はコムチ、マクセが負傷、兵の被害は不明。キョンフォン軍の被害は不明。 この戦いの勝利により、キョンフォンは西南海の実権を掌握した。スダルはキョンフォンと義兄弟の契りを交わし、忠誠を誓った。
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錦城の戦い(903年)
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錦城の戦い(第一次新安郡海戦)は、交易、水運の要地である錦城を奇襲して奪取しようとする王建率いる後高句麗軍と錦城を守る後百済の能昌(ヌンチャン=スダル)との戦い。重税に苦しむ呉多憐(オ・ダリン)は、王建の使者である王式廉(ワン・シンニョム)らが持ってきたチャン・ボゴの宝剣と娘トヨンの説得により後高句麗につくことにする。オ・ダリンが後高句麗に着いたことを知ったチョンネもひそかに後高句麗につくことにし、そ知らぬ顔をスダルに対して装い、対新羅戦の先鋒になれなかったスダルは、チェ・スンウが対後高句麗の備えに自分を西南海に置いたことが理解できず軍を解散してしまい、残ったのは錦城山城の1000人と錦城の500人だけであった。 後高句麗(王建)軍の指揮官は、大将軍王建(ワン・ゴン)、洪儒(ホン・ユ)、金楽(キム・ラク)、金言(キン・オン)、宗希(チョン・ヒ)、桓宣吉(ファン・ソンギル)、伊昕巌(イ・フナム)、卜智謙(ポク・チギョム)で戦艦百数隻、水軍部隊は、李歯(イ・チ)が率い、2,100人、歩兵3,000人のほか錦城の支援軍3,000人や騎兵などであった。後百済軍の指揮官は、能昌(ヌンチャン=スダル)で錦城山城に主力1000人、錦城に500人であった。 後高句麗軍は、貞州港を出発し二日で錦城に至り、満潮のときに呉氏(トヨン)の合図でいっきに錦城に上陸、桓宣吉(ファン・ソンギル)などの率いる部隊が木浦(ムクポ)、務安(ムアン)など海岸地方を制圧。聡礼(チョンネ)、呉多憐(オ・ダリン)の支援を受け、錦城も占領。スダルの立てこもる錦城山城を包囲した。洪儒(ホン・ユ)を先鋒、側面を桓宣吉(ファン・ソンギル)が率いて、錦城山城を攻撃した。スダルの善戦に苦戦し大きな損害を出してひきかえさざるをえなかったが、錦城山城のスダルの兵力も500人を割る損害をだしており、康州で新羅と戦った後百済軍が引き返す1日前に錦城山城を陥落させ、錦城地方を獲得した。 被害は、後高句麗軍不明、後百済軍全滅で、一人生き残ったスダルはキョンフォンに厳罰を願った。 この戦いで後高句麗は、「百済の中心に後高句麗の旗を立てる」のに成功し、クンイェは、錦城を羅州となずけた(現在の全羅道の「羅」の由来)。王建は、呉氏(トヨン)を第二夫人として得ることとなった。なお、この後後百済は錦城を二度と取り戻すことができなくなるがそれは後の話である。
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