鈴木光男研究室時代
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1970年(1969年度末)、中村は卒業論文「ミニマックス定理と不動点定理および分離定理との関係」を提出し、同年4月に東京工業大学大学院理工学研究科数学専攻に進学。同専攻の教授・国沢清典の指導を受けるとともに、引き続き鈴木研究室でゲーム理論の研究を続ける。1971年11月、最初の学会発表を経験する。1972年(1971年度末)、修士論文「Mーquota Game のKー安定」を書き上げ、4月からは社会工学専攻で博士後期課程に進学する。 鈴木が1973年に出版した『ゲーム理論の展開』では、他の研究室メンバーとともに中村も分担執筆を担当。「コアの理論」「手付けの存在を前提としないn人ゲームの理論」「シャープレイ値」「k安定の理論」を執筆した。1974年9月、ドイツで行われた“International Workshop on Basic Problem of Game Theory”に鈴木とともに招待される。中村は“The core of a simple game with ordinal preferences”を報告した。 中村は社会選択理論にゲーム理論を適用し、拡大戦略系ゲームという概念を提案。従来個別に検討されてきた多くの社会選択理論をゲーム理論で統一的に扱った。1975年3月、中村は博士後期課程を修了し、工学博士の学位を取得。社会工学における最初の工学博士とされる。学位取得後は工学部社会工学科の助手に就任するが、1976年に鈴木が理学部情報科学科へ移籍した際に、中村も一緒に同学科へ異動している。私生活では1973年に父を失っていた中村であったが、同年12月に結婚している。 研究室では、1975年に農林水産省から来ていた黒川泰亨と共同研究を実施。1976年には鈴木との共著で『社会システム ―ゲーム論的アプローチ―』 が出版され、「社会工学的な分野の柱石」と評価された。また、2学年下の金子守とは、ナッシュの社会厚生関数に取り組み、中山幹夫とはハーサニの社会厚生関数を研究している。大学院時代の岡田章とは学会誌の解説記事を執筆し、学会活動ではオペレーションズリサーチ学会で研究普及委員を務めている。 なお、中村は博士論文で投票ゲームでコアが空でない条件を導出しており、これをさらに発展した単純ゲームのコアが空でないための条件を導くKeyナンバーを定義する。この数はペレグによって中村ナンバー(Nakamura-number、中村数)と名付けられた。これはアメリカの教科書や講義でも、紹介されている。 詳細は「中村ナンバー」を参照
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