都市ハンザの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)
13世紀になると遍歴商人、使用人に実務を任せ、自らは本拠地となる都市に定住しながら指示を出す「定住商人」が台頭する。彼らは定住する都市で都市参事会を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれていった。これに伴い、ハンザ同盟の性格も商人団体から、商人が定住する都市によって構成される都市同盟「都市ハンザ」へと変質する。しかし、この過程で上記のヴィスビュー(遍歴商人団体の中心都市)とリューベック(都市同盟の中心)の間で主導権争いが行われた。 ワールシュタットの戦いが起きた1241年、リューベックとハンブルクと間に商業同盟が結ばれた。これは、その都市の資源はその都市の商人が扱い、外来の商人は排他するというもの。1256年、リューベックとロストックが対立する。しかし、ヴィスマールが両者の仲を取持ち、3都市は友好関係(ヴェンド同盟)を築くことに成功した。1259年には、ヴェンド同盟の会議も開かれる。ロストックとヴィスマールはリューベックを介してハンブルクとも結びつく。さらにハンブルクを通じて西方や南方の諸都市も同盟に加わった。この都市同盟は、後のハンザ同盟の基礎となり、ヴェンド同盟の会議はハンザ会議の起源となった。 当時はノヴゴロド商館でヴィスビューの優位性が認められており、ノヴゴロドでのドイツ商人の紛争はヴィスビューが上訴地とされていた。また、ノヴゴロドの利益はヴィスビューに送られ、ヴィスビューのドイツ人、リューベック、ゾースト、ドルトムントで分け持っていた。1260年頃から諸都市との連携を強めていたリューベックは、ヴィスビューから覇権を奪おうと画策する。 1290年代までに、ほとんどのハンザ都市がリューベックをリーダーとして認めるようになる。1293年、ロストックにザクセンとバルト海沿岸の諸都市代表が集まり、ノヴゴロドにおける上訴地をヴィスビューからリューベックに移すことが議論された。ヴィスビューはリガ(現在のラトビア共和国首都)やオシュナブリュックと共に反対したが、会議に参加しなかった諸都市も含め大勢の支持を取り付けたリューベック側が勝利した。1294年には、ネーデルランドの都市、スヴォレが書状の中でリューベックを「頭」、自らを「手足」に譬えて協力を誓った。さらに1298年のハンザ会議では、ヴィスビューに拠点を置く遍歴商人団体の廃止が決議された。 このようにリューベックをリーダーとする都市ハンザが台頭すると、それまで遍歴商人らによって独自に運営されていた各地の商館も都市ハンザの支配に下るようになる。最終的な決定権は現地の商人ではなく、ハンザ同盟諸都市の代表によって構成されるハンザ会議が下すこととなった。
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