遊牧地としての投下領とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 遊牧地としての投下領の意味・解説 

遊牧地としての投下領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)

投下 (モンゴル帝国)」の記事における「遊牧地としての投下領」の解説

遊牧領主ノヤン)にとっての投下領は収奪対象とのみ考えられがちであるが、それだけでなく投下領を遊牧そのものとして利用する事例モンゴル時代には見られた。最も顕著な地が西道諸王チンギス・カン諸子)の分封地とされた山西地方で、モンゴル高原地理・気候近く遊牧可能な山西一帯では多く集団遊牧行っていたがことが記録されている。 例えば、チャガタイ家投下領である太原路では、1260年代に後にチャガタイ・ウルス当主となるバラク居住していたと考えられている。その後バラク中央アジア移住してクビライ裏切ると、東方では傍系ありながらクビライ即位支持したアジキ大王チャガタイ家諸王の中で最も有力になったアジキ大王当初カイドゥ・ウルスとの戦いのため河西方面駐屯していたが、1285年至元22年)より「諸王駙馬王府官員」を伴って太原路管州に移住したという。 一方ジョチ家投下領である平陽路では、第2代皇帝オゴデイ自家の勢力拡大させるため潞州一帯クチュ・ウルス成立させて以来オゴデイ家諸王がこの地で遊牧を営むようになった。クチュ家はオゴデイ後の帝位を巡る政争の中で没落したもののウルス目体の存統は許され引き続き平陽路南部ではオゴデイ家人物遊牧利用していた。1289年至元26年)にはクチュ末子ソセそれまで居住していた汴梁路睢州が温暖で放にあわないとの理由から潞州移住してきた。アジギとソセ2人数十年にわたって山西地方住まい、『集史』「クビライ・カアン紀」においても「オゴデイチャガタイ一族ウルク)」として一緒に名前が挙げられているように、大元ウルス内のオゴデイ・チャガタイ家王族代表者と見なされていた。 これら、投下領に居住した諸王基本的に先祖伝来遊牧生活守り中国伝統定住生活になじまなかった。当然のことながら、遊牧生活順守する諸王存在地域社会軋轢を生み、『元史中にはモンゴル王侯民田荒らした」といった記録多数残されている。大元ウルス朝廷でも諸王現地住民軋轢問題視されており、朝廷投下居住する諸王食料銀錠定期的に与え政策行ったこのような投下領に住まうモンゴル牧民現地農民軋轢は、投下領から逃亡する農民増やし投下制度破綻一因となった評されている。

※この「遊牧地としての投下領」の解説は、「投下 (モンゴル帝国)」の解説の一部です。
「遊牧地としての投下領」を含む「投下 (モンゴル帝国)」の記事については、「投下 (モンゴル帝国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「遊牧地としての投下領」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から遊牧地としての投下領を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から遊牧地としての投下領を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から遊牧地としての投下領を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「遊牧地としての投下領」の関連用語

1
2% |||||

遊牧地としての投下領のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



遊牧地としての投下領のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの投下 (モンゴル帝国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS