近代ギリシャ国家とギリシャ人とは? わかりやすく解説

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近代ギリシャ国家とギリシャ人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 19:54 UTC 版)

ギリシャ人」の記事における「近代ギリシャ国家とギリシャ人」の解説

ギリシャとトルコの住民交換」も参照 1822年ギリシャ王国オスマン帝国から独立し、約360年ぶりにギリシャ人自分たちの国家持った(しかし、厳密に1800年ギリシャ人国家であるイオニア七島連邦国成立している)。 第一次世界大戦オスマン帝国敗北し、その領土西洋列強の手分割されたことは、ギリシャ王国にとっては小アジア広がるギリシャ人居住地帯を自領に加え最大好機もたらした1919年ギリシャ軍小アジア上陸し列強同意得てスミルナイズミル)を中心とする小アジア西南部のエーゲ海沿岸一帯占領下置いた。しかし、ムスタファ・ケマルらによってアンカラ打ち立てられトルコ革命政権激し抵抗を受け、激戦の末に1922年ギリシャ軍イズミルから撤退してアンカラ政府(後のトルコ共和国政府)と休戦した。このとき、トルコギリシャの間では住民交換協定結ばれトルコ領から90万人上のギリシャ人ギリシャへの移住余儀なくされたが、実はトルコ人ギリシャ人区別はかなり困難で、宗教だけを基準とせざるを得なかった。そのため、トルコ語母語とする正教会信者(カラマンリ、カラマンルとも呼ばれた)もギリシャ人とされ、逆にスラヴ系ギリシャ系等のムスリムテッサロニキ地方住んでいたイスラム教改宗したユダヤ人のほとんどはまとめてトルコ人として住民交換対象となったこのためかつては小アジア各地数多く住んでいたギリシャ人も、現在はイスタンブールわずかに残るのみである。 なお、トルコ小アジア黒海沿岸部にもトレビゾンド帝国ギリシャ系国家存在していた経緯から、オスマン帝国支配後もポントス人ギリシャ系住民コミュニティ脈々と存在していた。その後第一次世界大戦後混乱トルコとのギリシャ間の住民交換協定により、黒海沿岸部居住するギリシャ系住民多くが、ギリシャ本国グルジア旧ソ連領へ出国していったとされる。現在もわずかではあるが、グルジアとの国境付近には、他の少数民族混在する形で少数ギリシャ系住民居住しているといわれている。

※この「近代ギリシャ国家とギリシャ人」の解説は、「ギリシャ人」の解説の一部です。
「近代ギリシャ国家とギリシャ人」を含む「ギリシャ人」の記事については、「ギリシャ人」の概要を参照ください。

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