軍法会議とジブラルタル包囲戦
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「アダム・ダンカン」の記事における「軍法会議とジブラルタル包囲戦」の解説
この時期、ダンカンは主にダンディーに住み、1777年6月6日に、スコットランド最高裁判所の首席裁判官であるロバート・ダンダスの娘ヘンリエッタと結婚した。おそらくダンカンは、この有力な家族が、15年間も職務をむなしく探している自分に、何らかの仕事を得させてくれるだろうと考えたと思われる。1778年も押し詰まったころ、ダンカンはサフォーク(英語版)に乗艦し、ほどなくしてモナークに異動した。 1779年1月、ダンカンは、オーガスタス・ケッペルの、ウェサン島の海戦での指揮のまずさを裁くための軍法会議の委員となった。しかしダンカンは、査問会の間中、的外れかつ誘導的な質問、または曲解した回答で何度も検察側を止めた。このため海軍本部は、ダンカンが、ケッペルの命令に従わなかったサー・ヒュー・パリサー(英語版)の軍法会議に出席するのを望まなかった。この軍法会議は4月に行われたが、その前日、海軍本部はモナークに命令を出し、セントヘレンズ(英語版)に行かせた。しかしモナークの乗組員は、賃金を前払いされないことには航海はできないと主張し、しかるべき時に賃金支払いがなされなかったため、モナークは軍法会議の信号が送られた時、なおポーツマスにとどまっていた。このため、海軍本部の意思に反することを悩みつつ、ダンカンはやはり軍法会議に出席した。 1779年の夏、モナークは英仏海峡でサー・チャールズ・ハーディ(英語版)の指揮下に配属された。12月にはジョージ・ブリッジズ・ロドニーの戦隊に組み込まれた。この戦隊はジブラルタル包囲戦のために向かっており、1780年1月16日のサン・ビセンテ岬の海戦で重要な役割を演じた。イギリスへ戻ったダンカンはモナークから退き、1782年の3月に内閣が交代して、ケッペルが海軍卿に就任するまでは何の役にも就かなかった。その後90門艦ブレニムに乗り、その年いっぱいはリチャード・ハウの大艦隊のもとで、10月のジブラルタル包囲戦とスパーテル岬(英語版)沖の連合艦隊との対戦で指揮を執った。その後はサー・ジョン・ジャーヴィスの跡を継いでフォウドロイヤント(英語版)に乗り、戦争が終わってからは護衛艦エドガーの指揮をポーツマスで3年間執った。1787年9月24日には自分の旗を艦に掲げるまでに出世し、1793年の2月1日には中将となり、1795年6月1日には海軍大将に昇進した。1795年2月には北海での最高指揮官に任命され、旗艦ヴェネラブルに自らの旗を掲げた。
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