軍法会議と懲戒免職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 15:24 UTC 版)
「トマス・マシューズ」の記事における「軍法会議と懲戒免職」の解説
力で劣る軍を相手にしての、イギリス海軍の決戦による失敗の結果は大きかった。敵艦隊はイタリア駐留のスペイン軍に部隊や物資を割り当てることができ、戦争を思うがままに処理できた。イギリスでは事の真相を巡って意見が飛び交った。庶民院は国王ジョージ2世に公的な査問を嘆願し、12人にも及ぶ艦長が軍法会議にかけられて懲戒免職された。7人が有罪判決、うち1人が永久追放で残りが半給待遇で予備役となったが、うち3人はその後特赦された。レストックも出廷したが、彼は、マシューズが戦列信号と交戦信号を併用していた点を指摘し、マシューズに罪を着せることができた。レストックが戦列に入らなかった点もまた問題ではあったが、彼は政府内の複数の有力な支持者を得て無罪となり、その後の職も世話してもらえた。レストックは与党ホイッグに影響力を持っていたのである。また、マシューズとの不仲は、自分が最高指揮官の座を逃したことへの逆恨みともいわれる。マシューズが出廷したのは1746年のことで、戦列が整わないまま交戦に踏み切ったこと、敵を逃がしたこと、自軍に有利なかたちに敵を誘い込むことに失敗したのが罪状だった。マシューズは、自分は勇敢にたたかったと主張したが、1747年6月、法廷は罪状を確定し、マシューズは海軍から罷免された。 裁判の後、マシューズはランダーフでの自邸で過ごしたが、裁判の結果が影響したようには見えなかった。マシューズは、この結果を、自らの失敗によるものというよりは、党派による政党政治のせいによるものと考えていた。1749年、マシューズはロンドンのブルームズベリースクエアに転居し、1751年の10月2日に亡くなった。遺体はブルームズベリーのセントジョージ教会に埋葬された。
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