軍法会議とフランス艦の再就役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 10:20 UTC 版)
「1799年6月18日の海戦」の記事における「軍法会議とフランス艦の再就役」の解説
ペレーは捕虜となったが、ほとんど時を置かずして交換され、艦を失ったことで、1799年10月6日から11月25日まで、アントワーヌ=ジャン=マリー・テヴナール(英語版)中将が議長を務める軍法会議に出廷した。法廷では、ペレーがトゥーロンに戻った理由が、シリア沖のオスマン帝国とイギリスの力が勝っていたこと、フリゲートの一部が武装を縮小していたこと、そして食糧や水が不足していたことなどのまっとうなものであることがわかり、その後査問会は満場一致でペレーを無罪放免した。 「ジュノン」はイギリス海軍の軍艦「プリンセス・シャーロット」となった。「クラジューズ」も同様にイギリス海軍の艦となったが、ほどなくして監獄船となり、「アルセスト」は浮き砲台となった。アレルトは「ミノルカ」として再就役し、「サラミーヌ」もイギリス艦「サラミン」として地中海で就役して、私掠船2隻を拿捕した。1802年のアミアンの和約締結後、イギリス海軍はこの3隻を処分した。
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