越後長尾氏
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景忠の一族(弟とも)で、養子として景忠から越後守護代職を譲られた景恒(景廉とも)を祖とする家。分家に上田長尾家、古志長尾家がある。景恒の子のとき、上田荘(新潟県南魚沼市)を本拠地とする上田長尾家、古志郡蔵王堂・栖吉(新潟県長岡市)を本拠とする古志長尾家(栖吉長尾家とも)、蒲原郡三条(新潟県三条市)を本拠とする三条長尾家の3家に分かれた。中でも三条長尾家が越後守護代職を世襲し、越後府中(新潟県上越市)に居住したため、この家を府中(府内)長尾家とも呼ぶ。 府中長尾家は初代長尾高景以来、代々越後守護上杉氏を補佐する立場にあったが、応永の大乱などでしばしば対立し、ついに永正4年(1507年)、長尾為景のときに上杉定実を擁立して謀反を起こす。守護上杉房能を廃して下克上を果たした(永正の乱)。為景は房能の実兄である関東管領上杉顕定が越後に攻め寄せるとこれを戦死させたが、一族の上田長尾家を含む越後の国人たちと激しく対立した。為景は実妹を定実の継室にするなどして、何とかこれらの圧力をしのいだ。 為景の死後、あとを継いだ長尾晴景は病弱で越後国内の統御に失敗したため、弟の長尾景虎(のちの上杉謙信)が家臣に担ぎ出された。兄弟の伯父(実の伯母の夫)にあたる上杉定実の調停で、晴景が隠居して景虎が長尾家を継承した。越後の統一に成功した景虎は、永禄4年(1561年)に山内上杉家の上杉憲政から上杉氏の家督を譲られるが、府中長尾氏(三条長尾氏)の名跡の後継者は立てなかったため府中長尾氏(三条長尾氏)は断絶した。 為景の婚姻政策により、謙信の姉は古志長尾家の出自で、姉は上田長尾家の政景の妻となった。上田長尾家は政景が永禄7年(1564年)に事故死するが、その子顕景は謙信の養子になって上杉景勝と名を改め、謙信死後の家督争いに勝利して上杉氏を継承した。景勝も上田長尾家の名跡の後継者は立てていないため、断絶した形になっている。一方、古志長尾家の景信は謙信が上杉の名跡を継いだとき、ともに上杉に改姓して上杉十郎景信と名乗り、長尾上杉一門の重鎮となったが、謙信死後の家督争いで景勝と敵対したため滅ぼされた(なお、景信が上杉に改姓した際に古志家の家督は謙信の側近の河田長親に譲られたが、彼は長尾姓に改姓することを辞退したという)。
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