超願寺陣屋、江戸町奉行
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元和6年(1620年)、大坂城修復の監使を命ぜられる。寛永3年(1626年)、3代将軍・徳川家光が上洛する際、御供をする。寛永4年(1627年)4月、佐渡島の監使を務める。12月、従五位下式部少輔に叙任。 寛永8年(1631年)、江戸町奉行となった。翌年(1632年)には加賀爪忠澄も江戸町奉行に任じられた。当時の江戸町奉行は2人制の月番交代制であり、直之は呉服橋に役宅を賜り北町奉行と呼ばれ、加賀爪忠澄は常盤橋に役宅を賜り南町奉行と呼ばれた。以降、江戸町奉行の両者はそれぞれ北町奉行、南町奉行と呼ばれるようになった。すなわち名称は管轄の地域を指すのでなく、直之と加賀爪に与えられた役宅それぞれの位置、呉服橋と常盤橋の位置関係が由来である。 寛永10年(1633年)、上総国夷隅、長柄、市原、埴生四郡のうち4000石を加増され、9500石となり、夷隅郡苅谷に陣屋を設ける。同12年、小田原藩主稲葉正勝が病のため、代わって直之が小田原城の普請奉行を任じられる。正勝は春日局の長男で、直之の妻は春日局の姪だったため、縁戚としてこの仕事が回って来たものと思われる。寛永15年(1638年)、北町奉行を辞任。同17年(1640年)、寺社奉行に就任。 同年10月18日、母・自性院が76歳で死去。寺社奉行の母ということで葬儀が盛大に行われたという。江戸駒込の養源寺に埋葬される。養源寺は元来は稲葉家の菩提寺として稲葉正勝が創建したが、直之も縁者であるため私財を寄進し、堀家の菩提寺ともした。他にも堀江家、松平家などの墓所があり、後世の人は駒込の大名寺と呼んだという。 寛永19年(1642年)、58歳で死去。本光院殿圓成宗覚居士と追号を受け、養源寺に埋葬された。 なお、直之の代は禄高9500石で大名ではないが、後の代になり蒲原の所領を幕府領として上知し、上総の飛び地を整理し、椎谷藩を立藩させる処置がおこなわれ、大名家の椎谷堀家が誕生する。 以後廃藩置県に至るまで、直央・直恒・直旧・直喜・直著・直宣・著朝・直起・直温・直哉・之敏・之美と続き、椎谷藩を統治した。
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