赤の恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 22:57 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1918-1945)」の記事における「赤の恐怖」の解説
「赤の恐怖」と呼ばれる現象は第一次世界大戦とその後の数年間でアメリカ合衆国国内に起こった。戦争への反対者や破壊分子が戦争遂行努力を妨害しようとしているという多くのアメリカ人の間にあった怒りや恐れによって、アメリカ社会に脅威となると疑われた者への抑圧と逮捕が始まった。アメリカ合衆国議会は1918年に治安維持法を成立させ、徴兵に対する抵抗を奨励することで戦争遂行を妨害することを違法とした。左翼過激派はロシアにおけるボルシェビキ革命によって意気が上がり、レーニンの世界社会主義の呼びかけに答えようとした。 アメリカ合衆国は1919年を通して混乱状態にあった。大量に帰還した兵士達が職を見付けられなかった。こういう事態をウッドロウ・ウィルソン政権は考えてもいなかった。戦後、赤の恐怖、主要産業(製鉄業、食肉加工業)における大きなストライキ、および暴力を伴う人種暴動という流れの中で破壊活動に対する恐怖がまた始まった。2月にはウォール街で過激派が爆弾を仕掛け、シアトルでは労働者がストライキを打った。1919年の年間で黒人と白人の人種にからむ暴力を伴う事件は20以上も起こった。シカゴ、オマハおよびイレーヌ(アーカンソー州)の人種暴動があった。 5月1日、オハイオ州クリーブランドにおけるメーデーのパレードで、社会党指導者ユージン・V・デブスの逮捕に抗議していた人々が暴動に走った(メーデー暴動)。幾つかの爆破事件や暗殺未遂が状況をさらに悪くした。司法長官A・ミッチェル・パーマーはパーマー襲撃と呼ばれるものを実行した、これはアメリカ市民ではない社会主義者、無政府主義者、過激労働組合主義者および移民を襲撃し逮捕したものだった。1920年までに1万人以上が逮捕され、これらの襲撃で捕まえられた外国人はヨーロッパに送還された。その中でも著名な者はアナキストのエマ・ゴールドマンだった。 「赤い夏」も参照 に暴動事件がまとめられいます。
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