買米の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:47 UTC 版)
宝暦5年(1755年)の大凶作により仙台藩は54万石の損失を被った。ほかにも、寛延2年(1749年)の江戸上野寛永寺宝塔の普請手伝いや、明和4年(1767年)の関東諸川16ヵ所の修築など、幕府から命じられた手伝役で大きな出費を強いられた。藩は再び困窮するようになり、財政は大坂の豪商や、京都の大文字屋や阿形作兵衛、江戸の海保半兵衛などの蔵元からの借金に依存するようになった。しかし、大文字屋が破産したことなどで買米本金の調達も難しくなったため、前渡金制度は宝暦7年(1757年)に中止され、少額の現金買いとなり買米の利益はほとんど見込めなくなった。 財政不足を補うために、領内の百姓や町人に多額の献金をさせ、これに応じた者たちを士分に取り立て知行や扶持を給した。こうして武士身分になった者を「金上侍」と呼んだが、そうした金上侍の中に安倍清右衛門がいた。清右衛門は藩の財政再建策の1つとして買米制度を強化しようとしたが、天明の飢饉の影響もあり失敗している。以後、蔵元商人などが調達した金で現金買いを行なうが、その額は5万両程度だった。寛政年間では年々26万石で25万両の利潤を上げたこともあったが、米価の下落により文化文政期には大幅な減収となり、そのまま幕末へと続く。 宝暦年間から買米本金に出資していた大坂商人の升屋(山片平右衛門)は、寛政11年(1799年)から12年(1800年)ごろに仙台藩の蔵元となった。升屋は為替手形を発行してそれを買米本金に充当し、江戸で米を売り払った金(正金)を藩への借金として受け取ることができた。そのため、仙台藩の本石米は升屋の米同然となり、「仙台藩の升屋か升屋の仙台か」とも言われた。幕末に近江商人の中井家が藩の国産統制に乗り出して買米も引き請けたが、成果は挙がらなかった。 寛政5年(1793年)ごろには藩は弁天札という米札(藩札)を発行して買米を行ない、江戸で米を売却してから幕府発行の正貨と引き換えるという触を出した。しかし、かつて天明の飢饉の際に行なわれた銀札政策が失敗したことで大きな損失をこうむったため、農民たちは弁天札も信用せず買米を上納しなかった。この政策は失敗し、藩の政策担当者たちは罷免された。
※この「買米の衰退」の解説は、「買米仕法」の解説の一部です。
「買米の衰退」を含む「買米仕法」の記事については、「買米仕法」の概要を参照ください。
- 買米の衰退のページへのリンク