買米と飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 21:47 UTC 版)
近世期の飢饉には、冷害や虫害といった自然災害だけでなく、人為的な理由もあった。それが、買米制と、穀物を領外へ移出することを禁じる「穀留」であった。買米によって余剰米を都市へ売却することで食糧の備蓄が不足したこと、穀留によって凶作時にも自領の食糧を外へ出さず他藩への救済を行わなかったことで、被害は大きくなったといわれる。歴史学者の阿刀田令造の研究では、買米仕法の改変による収奪強化が百姓の困窮を招いたとしている。また、飢饉史を研究している宮城学院女子大学の菊池勇夫は、買米などの人為的要因により飢饉の被害は大きくなっているという見方を示し、「藩は『コメを金に換えたい』という考えが先に立ち、領民救済が後手になった」と指摘している。 市場経済の進展や、幕府から命じられた手伝普請などにより、出費が増大した大名家は現金収入を増やす必要があった。上方や江戸への廻米を藩財政の基本にしていた奥羽諸藩は、年貢だけでなく領内からの買米も積極的に進めていたが、米価の低落により財政収入も伸びなくなった。しかし、財政が悪化した諸藩は領内の穀物を根こそぎ領外へ移出し、そのため前年度が豊作でも翌年が大凶作だと飢饉に陥るという構造を生み出してしまった。 宝暦の飢饉が起きたときの記録「宝暦飢饉記録」によれば、仙台藩は元禄13年から14年(1700年 - 1701年)には凶作であっても飢饉にまでは至らなかったが、その後の宝暦の飢饉の際にはそれよりも収穫がよかったのに「前年より御備米不足」のため餓死者が出たとしている。 天明飢饉当時の仙台藩は、三都の商人達への借金があるため、飢餓移出になる危険があると分かっていても廻米を強行していくほかなかった。しかも前年の天明2年は米価が高騰したことで、翌3年の端境期に領内の米を全て大坂・江戸に運び売却しようとしたため、同年秋の大凶作により大飢饉となった。三都商人資本に大名の財政・地域経済が従属的な地位を強いられていたこと、そのために領内の米を少しでも高値で売りさばこうとしたことに、飢餓移出が発生する原因があった。
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