計画変更・着工
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
当初の免許では、須雲川の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台へ抜け、宮ノ下を経由して強羅に行くルートであった。しかし、前述のように水害に対応するために風祭と湯本の間の軌道を変更することになったため、登山鉄道のルートも再検討することとなり、1911年5月には最急の勾配が125‰(パーミル)のアプト式鉄道とする計画に変更された。しかし、これは当時既に最急勾配が66.7‰のアプト式鉄道として開通していた信越本線の横川駅と軽井沢駅の間(碓氷峠)よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった上、自然と景観を破壊する恐れがあるという理由により、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をヨーロッパに派遣した。約半年間にわたる視察を終えて半田は帰国し、その視察の報告を受け、最急勾配80‰の粘着式鉄道として登山鉄道を建設することになり、1913年3月に計画・設計の変更を鉄道院に提出した。この計画・設計の変更は同年6月に認められているが、建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されている。 こうして、登山鉄道の建設は開始されたものの、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり、資金調達に苦慮することになった。1910年にも資本金の増額が決議されていたが、その後1914年には社債の発行を行うことで建設資金を確保、さらに1918年には資本金を110万円増額、1922年にはさらに資本金を330万円増額することになり、建設が終わる頃には小田原電気鉄道の資本金は660万円と、建設当初の3倍にもなっていた。これらの資金調達に応じたのは、東京の資本家が中心であったが、これは多数の財界人と交流を持っていた益田の存在が大きかったとみられている。 建設中の箱根湯本駅 建設中の早川橋梁 建設中の出山信号場 さらに、第一次世界大戦の影響で輸入予定だった建設資材の未着や遅れが発生したことに加え、温泉脈に影響を与えないための路線変更もあり、工事は大幅に遅れた。工事そのものも難工事で、もっとも難航を極めたのは早川橋梁の架設工事であったとされている。車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが第一次世界大戦の影響で実現せず、主要機器がアメリカ製の車両を購入することになった。 発電所については、新たに三枚橋発電所を建設したが、こちらは1918年11月に完成し、代わりに湯本茶屋発電所は廃止された。 すべての工事が終わったのは1919年5月24日で、着工から7年以上が経過していた。
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