計画変更・終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 13:48 UTC 版)
「ジオット・キャスピタ」の記事における「計画変更・終焉」の解説
1号車は1989年(平成元年)9月末に完成し、松本恵二のドライブでシェイクダウンが行なわれた。同年10月の第28回東京モーターショーでスバルの展示ブースにて参考出品という形で発表され、1991年の市販開始を予定して更なる開発が続けられた。童夢-零では市販化の壁となった運輸省への認可申請も、イギリスで生産する輸入車という形でクリアした。同時期に開発されていたヤマハ発動機のOX99-11とともに、日本初の量産スーパーカーとして期待された。 しかし、エンジン供給元のスバルは、1990年からコローニチームと組んでへF1へ参戦したものの、予備予選を1度も通過できないまま半年で撤退し、モトーリ・モデルニとの提携を解消した。その結果、スバルはキャスピタ・プロジェクトからも撤退し、残されたワコールと童夢は新たなパワーユニット捜しを行わなければならなくなった。 日産製のV6ターボやホンダ製のF1エンジンなど様々な検討が行われたが、結局はイギリスのレーシングエンジンビルダーであるエンジン・ディベロップメント製のF1用ジャッドV10エンジンが選ばれた。元々水平対向エンジンを搭載するよう開発されていた車体にV型エンジンを搭載することになったため、設計変更を余儀なくされた。また、ボディデザインも市販化に向けて一部修正された。 2号車は1992年夏に完成し、イギリスの公道でテスト走行が重ねられた。1993年7月には日本のナンバープレートを取得した状態で再公開されたが、同時に童夢から市販化の予定がないことがアナウンスされた。すでに日本のバブル景気は崩壊しており、高級スポーツカーを少量生産して採算が取れるような状況ではなくなっていた。
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