触発源
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「ドルーシャウトの肖像画」の記事における「触発源」の解説
シェイクスピアの研究者はこの絵を他の肖像画の正しさを測るものさしとしてみるだけではなく、ドルーシャウト自身の触発源にも迫ろうとしている。19世紀の学者であるジョージ・シャーフは、光と影が矛盾していることを根拠にオリジナルの絵が「リムニングかクレヨン画のどちらか」であると主張した。両者とも立体感を明暗法ではなく主に輪郭線で表現する技法である。また彼はドルーシャウトが立体的な影を加えるには作家として未熟だったとも推論している。メアリ・エドモンドは大マーティンが肖像画家のマルクス・ヘーラールツと交流があったことをうかがわせる点を指摘し、かつてヘーラールツもシェイクスピアの肖像画を描いていたことを示す資料があると記している。彼女のまとめによれば、この現存していないヘーラールツの絵をもとにドルーシャウトの版画はつくられている。またダブレットやカラーの描写や立体表現が稚拙であることはドルーシャウトが倣った原図にはシェイクスピアの頭と肩しか描かれていなかったことをうかがわせる。身体の部分は、当時は一般的であったように、彫刻師のほうで付け加えられたものだということだ。 エドワード・フラワーの肖像画として知られるようになる絵が発見されたのは19世紀のことである。絵には1609と年時が入っており、実際に17世紀の板に描かれていたものだった。はじめこの絵はドルーシャウトが版画に写した大本の作品だと広く受け入れられたが、1905年に美術研究者のマリオン・シュピールマンがこの肖像画はドルーシャウトの版画の第2ステートと一致することを証明した。もしこれが原図であるならば第1ステートに忠実であるはずだと考えたシュピールマンはそれが版画から写されたものであると結論づけた。2005年に行われた科学的分析からも、この絵が17世紀のオリジナルの肖像画に重ねて描かれた偽物で、時代は19世紀のものだということが裏付けられた。
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触発源
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「死の島 (ベックリン)」の記事における「触発源」の解説
一説には、「死の島」が再現しているのは最初の3点が描かれた場所であるイタリア、フィレンツェのイギリス人墓地(英語版) である。この霊園はアトリエのそばにあり、ベックリンの幼い娘であるマリアを埋葬した場所でもある(ベックリンは14人の子をもうけ8人を失った)。 岩の小島のモデルとしてはケルキラ島の近くにある小さな島、ポンディコニシ(英語版)が知られており、ここは糸杉が繁るなかに小さな礼拝堂がある。他にもティレニア海に浮かぶポンツァ島や聖ユライ霊園島、モンテネグロコトル湾の聖ジョージ島(Sveti Đorđe、位置)などが挙げられてきた。 ベックリン自身が弟子に触発源として語ったとされるのはイスキア島のアラゴネーゼ城である。しかしこれらの地をベックリンが訪れるのは後になってからで、中には画家が足を踏み入れたことのない場所も含まれている。
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