観音像・香炉と鳩杖とは? わかりやすく解説

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観音像・香炉と鳩杖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 07:35 UTC 版)

板谷波山」の記事における「観音像・香炉と鳩杖」の解説

波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動打ち込みながら、生まれ故郷下館にも想い寄せ続けていた。故郷帰省した際には、文化財修復保存工芸展や観能会の開催小学校運動会への寄付をしたり、祇園祭お囃子伝授行ったりもしていた。 1937年昭和12年)に日中戦争勃発し下館の町で戦死者出始めた(下館から出征した最初戦死者波山実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問訪れ、「忠勇義士」の文字刻んだ自作白磁香炉霊前供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山香炉贈呈について中断しあらため戦後自作白磁観音像を贈ることとし1951年昭和26年4月29日1956年昭和31年7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記され桐箱収められ観音坐像が、計271名の遺族贈られた。 また1933年昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄82歳となり、自作鳩杖祝物として贈ろう考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知方々にも同じく祝物を」と考え下館町80歳以上すべての高齢者自作鳩杖贈呈された。こちらも、絹の袋入れてから桐箱収め、さらに熨斗付き奉書紙包み水引結んだものを、自らが一軒一軒回り直接本人手渡している。部分には鋳物白磁2種類あるが「最初は私得意の焼物作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金鋳物しました狂い出ぬよう南洋産の木を用い、女の方に赤みのところ、男の方に黒味使いました」と波山語っている(太平洋戦争中鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲破壊され故郷へ疎開していた間も含めて休むことなく、自らが80歳となる1951年昭和26年)まで私費毎年続けた

※この「観音像・香炉と鳩杖」の解説は、「板谷波山」の解説の一部です。
「観音像・香炉と鳩杖」を含む「板谷波山」の記事については、「板谷波山」の概要を参照ください。

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