観阿弥の出自とは? わかりやすく解説

観阿弥の出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 12:26 UTC 版)

観阿弥」の記事における「観阿弥の出自」の解説

観阿弥息子世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥祖父伊賀服部氏一族から宇陀中家養子にいき、その人京都女性関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。この観阿弥の父は、大和山田猿楽一座養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽一座外山の座の出身であるという。なおこの記述によると、観阿弥長兄宝生大夫次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽関係していたと思われる。 また曾孫に当たる観世小次郎信光肖像書かれた讃には、伊賀服部氏一族武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥結崎氏を名乗らせ春日神社捧げた、という伝説的なエピソード記されている。 一方1962年昭和37年三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見され上嶋文書江戸時代末期写本)によると、伊賀服部氏の上嶋元成の三男観阿弥で、その母は楠木正成姉妹であるという。この記載従えば観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見され播州永富文書傍証に、この記載を真とする意見もあり、1975年永富家子孫によって、伊賀市観阿弥の妻(世阿弥の母)の彫像立てられた。しかしこの文書信憑性巡って議論分かれており、この説は研究者の間では広く受け入れられているとは言い難い。しかし梅原猛は、『うつぼ舟II 観阿弥と正成』(2009)で観阿弥と正成の関係を主張し表章挑戦した。表はこれを受けて昭和創作伊賀観世系譜」―梅原猛挑発応えて』(2010)を上梓し、詳細に反論した

※この「観阿弥の出自」の解説は、「観阿弥」の解説の一部です。
「観阿弥の出自」を含む「観阿弥」の記事については、「観阿弥」の概要を参照ください。

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