西表島への疎開命令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 19:23 UTC 版)
波照間島に疎開命令が出たのは、八重山における正式な疎開命令より3ヶ月ほど前、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後の1945年3月末(正確な日付は不明)であった。命令書はなく、旅団本部が口頭で竹富村の村長に伝えたという。理由は、アメリカ軍がこの島に上陸してくる可能性が高まったためとのことであった。 村長は波照間島出身の村議会議員に命令を伝えたが、議員は疎開を拒否した。すると、青年学校の指導員として波照間島に滞在していた山下虎雄なる人物が現れて疎開を命令した。山下は一変して軍服をまとうとともに帯刀し、中尉(少尉とも)と名乗って島を支配下に置いた。住民には疎開に反対する者もいたが、軍の命令でありやむなくこれに従った。山下は、反対する住民に対して顔を真っ赤にさせて怒り、「自分の言うことに反対する者はこの日本刀で斬る」と脅した。また、「米軍が波照間島に上陸する恐れがあるので島は無人島にする。家畜は一頭残らず殺し、家屋はすべて焼き払って、井戸には毒薬をいれる」と言ったという。 この山下という名前は偽名であり、その正体は陸軍中野学校・離島残置要員特務兵の陸軍軍曹酒井清(護郷隊では酒井喜代輔と名乗った)である。酒井は1945年の初めに、スパイ養成機関である陸軍中野学校から離島工作員に指定され、表向きは青年学校の指導員として送り込まれてきた人物である。 なお、酒井(山下軍曹)は、戦後に波照間島を訪れているが、1981年8月7日の来島時には、当時の浦仲浩公民館長はじめ、5つの部落代表、老人会、婦人会、青年会、町議など19人の連名で「あなたは、今次対戦〔ママ〕中から今日に至るまで名前をいつわり、波照間住民をだまし、あらゆる謀略と犯罪を続けてきながら、何らその償いをせぬどころか、この平和な島に平然として、あの戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように三度来島したことについて全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と直接抗議されている。戦後は滋賀県で工場を経営していた。 疎開先について島民の間で協議が行われ、マラリアの無病地である西表島東部の由布島(ゆぶじま)への疎開を主張する者もいた一方で、由布島は波照間島から離れていて荷物の運搬が困難であり、空襲があった小浜島にも近いため、洞穴が多く空襲の恐れがない西表島南東部の南風見田に賛成する者が多数であったとされる。その結果、島民のほとんどは南風見田に疎開し、由布島や古見に疎開したのはごく一部であった。しかし、南風見田はマラリアの発生地域であり、1920年にそのために廃村に追い込まれた地であった。
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