マラリアの発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 19:23 UTC 版)
青年層の多くが鉄血勤皇隊や従軍看護婦として軍隊に編入させられている事もあり、疎開先への移動は困難を極めた。疎開先でも雨露がしのげる程度の茅葺き小屋、それも共同小屋が大半で、蚊帳を吊るすこともできず、蚊の襲来を避け得ない状態だった。また、不衛生な共同便所なども蚊の発生の原因となった。 山岳地域への疎開によって農業は中断し、配給も6月以降はほとんど無くなり、医療物資の欠乏、栄養不良の状況下で、マラリアが発生を始めた。小屋には病人が何人も横たわり、次々に死者が出た。7月23日に軍は疎開の指示を解除し、各部落へ戻ることを許したが、その命令が徹底せず、さらに戻るのが遅れた地区も多かった。さらに8月15日の終戦を過ぎても、当時の部隊長は避難先の住民にこれを知らせず、避難解除命令を出さなかったため、混乱が続いた地区もあった。これらのことは、住民が落ち着いた生活に戻ることを阻害し、さらに被害を広げた。 八重山における戦争被害は琉球政府文教局の『琉球資料集第一集』(1956・下記参考資料より孫引き)によると「空襲による死者174名、山地へ強制退避せしめたる結果、マラリアにより死亡したる者3647名、(以下物品被害を略)」というように、戦闘行為の犠牲よりマラリアの犠牲者数がはるかに上回った。結果的に八重山への上陸攻撃は行われなかった。
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