西大橋開通
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1985年(昭和60年)3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始した。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた)。事業費185億円に対して全くの赤字経営で、会計検査院による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円(特定大型車)であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に回数券を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった。 西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1 kmに及ぶこともあった。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった。この頃、同じ問題で悩む横浜ベイブリッジを公団職員が訪ねて対策を聞くも、監視カメラ導入やパトカーによる監視体制があっても一向に効果を上げ得ないとのことで、まるで打つ手がない状況であった。その後、一応の対策として退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった。 以上の如く、西大橋単独の開通では物流ルートとして全くといっていいほど機能しなかった。この状況を一刻も早く脱するためには残り2橋を含む豊田 - 四日市間の全線早期開通が望ましいことから、地元の要請を受けた国は建設に向けて重い腰を上げることになった。ただし、財政難であることから国は早期着工の条件として地元経済界にも応分の負担を求めることになった。
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