西保中村と周太郎の生家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/27 00:49 UTC 版)
「西保周太郎」の記事における「西保中村と周太郎の生家」の解説
甲斐国山梨郡西保中村(現・山梨市牧丘町西保中)に生まれる。 西保中村は甲斐北東部の山間部に位置する山村であり、生業は主に畑作で、年貢は金納であった。秩父往還・青梅往還に近接する物流の拠点で、農村歌舞伎や相撲など芸能興行も盛んな消費地であり、竹川家も煙草などの商品作物の輸送業や金融業・芸能興行に携わっている。 なお、『近世侠客有名鑑』では周太郎を「上州 西部ノ周太」と記し、上野国の博徒としている。これは「西保中村」が「西部」と誤伝されたと同時に、西保中村が秩父往還を通じて武蔵国・上野国に近いことから、実際に周太郎が上野国も勢力圏にしていた可能性も考えられている。 生家である竹川家は江戸時代から明治期の古文書261点や木刀、銃床などの実物資料を含む竹川家資料を伝存している。竹川家史料には明暦元年(1655年)に竹川信義が作成した「竹川家由緒」がある。竹川信義は甲州流軍学を修め甲源一刀流を学んだ兵法者で、「由緒」によれば竹川家は上総国の竹内氏の出自であるという。 「由緒」によれば、竹川氏は室町時代に甲斐武田氏に士官し、甲斐・西保芦沢(山梨市)に土着し、当初は「芦沢氏」を称したという。さらに、同家の女性である「瀧川」が武田勝頼の寵愛を受け、天正10年(1582年)2月に「勝若丸」を出産したという。そして武田氏の滅亡に際して瀧川と勝若丸は落ち延び、武田氏の「竹」と瀧川の「川」字から「竹川」を称する事になったとする伝承を記している。 このように「由緒」によれば竹川家は武田氏の直系子孫を称しているが、「瀧川」「勝若丸」の存在は同時代の文書・記録から確認されておらず、竹川信義により創作された伝承であるとも考えられている。 与一右衛門・周太郎親子の代においても、竹川家が武田氏子孫とする由緒は意識されている。天明5年(1785年)に竹川家が武田氏の祈願所である雲峰寺に収めた御初尾の受取状によれば、与一右衛門を「芦沢御屋形 武田与一右衛門」と記している。また、同年、与一右衛門は雲峰寺に武田信玄の肖像画を奉納している。 周太郎も文化4年(1807年)に恵林寺に奉納金を納めているほか、文化12年(1815年)の他国往来手形や、文化14年(1817年)に周太郎が恵林寺に奉納金を寄付した際の礼状である「覚(奉納金受取ニ付)」では宛所を「武田秋太郎」としている。
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