西佐多浦村の成立と近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:43 UTC 版)
西佐多浦という地名は江戸時代より見え、薩摩国鹿児島郡吉田郷(外城)のうちであった。村高は「三州御治世要覧」では1,415石余、「旧高旧領取調帳」では1,501石余であった。 享保12年(1727年)の「大御支配」と呼ばれる検地によって佐多之浦村が分村され東佐多浦村(現在の東佐多町)と西佐多浦村に分割された。東佐多浦村に置かれていた吉田郷の行政を司る地頭仮屋の麓集落は西佐多浦村の一部も含んで形成されていた。寛政6年(1794年)の西佐多浦村の人口は420人であった。元治元年(1864年)には現在の鹿児島市立吉田小学校の前身となる復生館が設立された。
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