西俣の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:25 UTC 版)
「西俣町 (鹿児島市)」の記事における「西俣の成立と中世」の解説
西俣という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国満家院のうちであった。西俣名とも称されていた。鎌倉時代の天福元年(1233年)「紀道房外二名連署契約状」に満家院西俣村と見え、この中で満家院司の大蔵永平娘(菩薩房)の息である栄尊(重賢)に西俣村などを付与されるように税所義祐ら満家院司を説得することが約された。寛元5年(1247年)には正式に菩薩房から栄尊に西俣村など5村が付与された。建長5年(1253年)には栄尊(重賢)から西俣などの惣領職が嫡子の祐範に、西俣名代官職が次男の弥三郎守忠に譲与された。「比志島系図」によれば弥三郎守忠はその後、西俣村を領して西俣氏を称した。西俣氏は居城として聖城(ひじりじょう)を西俣下に築城した。 南北朝時代には伊集院を治めていた伊集院氏の勢力が隣接する満家院にも及び、観応元年(1350年)に西俣城と郡山城が伊集院忠国によって攻撃され、西俣城は落城し、忠国領となった。四男義久の次男である伊集院忠房は有屋田氏を称し有屋田(現在の有屋田町)を支配し、西俣も伊集院氏によって支配され、それまで当地を治めていた西俣氏は有屋田氏の家臣となったという。その後宝徳2年(1450年)に伊集院氏が島津氏に追われ肥後に逃亡しその後当地も島津氏の支配地となった。
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