西保周太郎・古屋左京の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)
「甲州博徒」の記事における「西保周太郎・古屋左京の抗争」の解説
甲州博徒の抗争の嚆矢となったのは西保中村(山梨市牧丘町)の西保周太郎と一之宮村の古屋左京との抗争で、西保周太郎は甲州名産であった煙草などの運送業や相撲興行に関与し、地域金融を営み、秩父往還・青梅往還沿いを縄張りとしていた。一方の古屋左京は一之宮村の神主で甲州街道と勝沼宿から青梅街道を南北に結ぶ地域を勢力圏とし、配下には拳銃や鉄炮など武術に秀でた子分を抱えていた。 両者は文政2年(1819年)から文政4年(1821年)頃に本格的な抗争を開始する。ある日、勝沼付近で古屋左京らが野外で博奕を行っていたところを、周太郎派の大野村の駒蔵が通りかかり口論となり、両勢力は互いの居宅を襲撃し刃傷騒動に発展した。 文政4年に西保周太郎は古屋左京側の博徒石森村の常兵衛の企てにより手打ち式に出席し、その場で殺害された。一方の古屋左京も文政6年に捕縛されて刑死し、両勢力が壊滅することで抗争は集結した。西保周太郎と古屋左京の抗争は甲斐の人々に大きな影響を与え、事件直後には『敵討甲斐名所記』が出版された。
※この「西保周太郎・古屋左京の抗争」の解説は、「甲州博徒」の解説の一部です。
「西保周太郎・古屋左京の抗争」を含む「甲州博徒」の記事については、「甲州博徒」の概要を参照ください。
- 西保周太郎・古屋左京の抗争のページへのリンク