藤澤哲也とは? わかりやすく解説

藤澤哲也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 04:35 UTC 版)

藤澤 哲也(ふじさわ てつや、1965年11月6日 - )は、日本のレーシングドライバー、元モーターサイクルレーサー。埼玉県出身。TCpro Racing Teamオーナー。

経歴

1984年に2輪ロードレース開始。1985年、ノービス125ccクラスにデビュー。

1986年には全日本ロードレース選手権ジュニア125ccクラスで8戦中4勝を挙げる圧勝でシリーズチャンピオンを獲得した(ホンダ・RS125R)。

1987年から国際A級に昇格し、TT-F1クラスに転向するも、鈴鹿BIG2&4レースでクラッシュに遭い、この時の負傷のため二輪レースから引退。この年、全日本では押しがけスタート方式から、クラッチスタートに変更された年だった。

その後、趣味でレーシングカートを始め、ヒストリックカーレースにも参戦。ネオヒストリックカージネッタG12でマイスターカップシリーズチャンピオン獲得。

1998年FJ1600に参戦。デビューレース・エビス選手権でいきなり優勝、富士選手権でも勝利を収める。

1999年、もてぎ7時間耐久オートバイレースに参戦前哨戦の3時間耐久で優勝、決勝では僚友によるタイムレースでポールポジションを獲得。翌2000年ももてぎ7時間耐久オートバイレースに参戦。

2000年から2002年には、関東F4選手権に参戦し、2002年にシリーズチャンピオンを獲得。

2003年スーパー耐久シリーズにフル参戦開始。オガワランサーでシリーズ2クラス6位を獲得。国内最高峰カテゴリーであるフォーミュラ・ニッポンノバ・エンジニアリングから参戦。その時点での最年長参戦者だった服部尚貴よりも年上での”最高峰デビュー”で話題となった。

戦歴

フォーミュラ・ニッポン

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
2003年 カッチャオ TCPRO NOVA SUZ
11
FSW
11
MIN
Ret
TRM
12
SUZ SUG FSW MIN TRM SUZ 21位 0

藤沢哲也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/16 05:45 UTC 版)

藤沢 哲也
基本情報
国籍 日本
出身地 大分県大分市鶴崎
生年月日 (1953-08-03) 1953年8月3日
没年月日 (2024-01-09) 2024年1月9日(70歳没)
身長
体重
182 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1971年 ドラフト1位
初出場 1974年10月14日
最終出場 1979年8月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

藤沢 哲也(ふじさわ てつや、1953年8月3日 - 2024年1月9日)は、大分県大分市鶴崎出身のプロ野球選手投手)。

来歴・人物

鶴崎工業高校では、3年生時の1971年にエース、四番打者として夏の県大会に出場。県大会中九州大会を通じ6試合に無失点を記録、55三振を奪う。甲子園出場を決めた中九州大会決勝では尾西和夫春日祥之輔のいた中津工と対戦し、ノーヒットノーランを演じた。しかし本大会では1回戦で静岡学園に敗退[1]。この試合では制球を乱し、2イニングを投げたのみに終わった。

同年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。大型左腕として期待されたが、肩の故障もあってなかなか一軍には上がれなかった。1974年10月14日長嶋茂雄の引退試合で一軍初登板を果たす。柴田勲高田繁に連続本塁打を喫するが、この年三冠王王貞治から三振を奪った[注 1]。中日での登板はこの1試合のみに終わり、1975年オフに西岡三四郎との交換トレードで星野秀孝と共に南海ホークスに移籍。南海でも1979年の1試合のみの登板に終わり、1980年オフに引退。

ノーワインドアップから、快速球を思い切って投げる。また外角へカーブ、シュート、内角へ速球を投げてゆさぶる投球が特徴。

社会人野球クラブチーム大分ソーリンズ野球倶楽部で投手コーチを務めていた。また、母校の鶴崎工業高校野球部OB会会長を務めていたが、2024年1月9日に逝去[2]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1974 中日 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 0.2 2 2 1 0 0 1 0 0 3 3 40.50 7.50
1979 南海 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 0.00 2.00
通算:2年 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 1.2 2 2 3 0 0 2 0 0 3 3 16.20 3.00

記録

背番号

  • 25 (1972年 - 1973年)
  • 32 (1974年 - 1975年)
  • 45 (1976年 - 1980年)

脚注

注釈

  1. ^ 但し、ここで3アウトチェンジとなり、次のイニングから堂上照に交代したため、長嶋との対戦は幻に終わった。

出典

  1. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 鶴崎工業高等学校野球部ob会 (2024年1月10日). “【訃報のお知らせ】”. Facebook. 2025年3月16日閲覧。

関連項目

外部リンク





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