藤澤哲也
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藤澤 哲也(ふじさわ てつや、1965年11月6日 - )は、日本のレーシングドライバー、元モーターサイクルレーサー。埼玉県出身。TCpro Racing Teamオーナー。
経歴
1984年に2輪ロードレース開始。1985年、ノービス125ccクラスにデビュー。
1986年には全日本ロードレース選手権ジュニア125ccクラスで8戦中4勝を挙げる圧勝でシリーズチャンピオンを獲得した(ホンダ・RS125R)。
1987年から国際A級に昇格し、TT-F1クラスに転向するも、鈴鹿BIG2&4レースでクラッシュに遭い、この時の負傷のため二輪レースから引退。この年、全日本では押しがけスタート方式から、クラッチスタートに変更された年だった。
その後、趣味でレーシングカートを始め、ヒストリックカーレースにも参戦。ネオヒストリックカージネッタG12でマイスターカップシリーズチャンピオン獲得。
1998年、FJ1600に参戦。デビューレース・エビス選手権でいきなり優勝、富士選手権でも勝利を収める。
1999年、もてぎ7時間耐久オートバイレースに参戦前哨戦の3時間耐久で優勝、決勝では僚友によるタイムレースでポールポジションを獲得。翌2000年ももてぎ7時間耐久オートバイレースに参戦。
2000年から2002年には、関東F4選手権に参戦し、2002年にシリーズチャンピオンを獲得。
2003年、スーパー耐久シリーズにフル参戦開始。オガワランサーでシリーズ2クラス6位を獲得。国内最高峰カテゴリーであるフォーミュラ・ニッポンにノバ・エンジニアリングから参戦。その時点での最年長参戦者だった服部尚貴よりも年上での”最高峰デビュー”で話題となった。
戦歴
フォーミュラ・ニッポン
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2003年 | カッチャオ TCPRO NOVA | SUZ 11 |
FSW 11 |
MIN Ret |
TRM 12 |
SUZ | SUG | FSW | MIN | TRM | SUZ | 21位 | 0 |
PIAA NAKAJIMA RACING | Olympic KONDO Racing Team | TEAM 5ZIGEN | Forum eng, ARTA Team LeMans | PLANEX EBBRO NOVA | カッチャオ TCPRO NOVA → TEAM NOVA(第5戦 - 第7戦) → OIZUMI TEAM NOVA(第8 - 10戦) |
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COSMO OIL RACING TEAM CERUMO | TEAM IMPUL | TEAM 22 | CARROZZERIA Team MOHN | DoCoMo TEAM DANDELION RACING | |||||||
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藤沢哲也
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/16 05:45 UTC 版)
基本情報 | |
---|---|
国籍 | ![]() |
出身地 | 大分県大分市鶴崎 |
生年月日 | 1953年8月3日 |
没年月日 | 2024年1月9日(70歳没) |
身長 体重 |
182 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト1位 |
初出場 | 1974年10月14日 |
最終出場 | 1979年8月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴
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コーチ歴
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この表について
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藤沢 哲也(ふじさわ てつや、1953年8月3日 - 2024年1月9日)は、大分県大分市鶴崎出身のプロ野球選手(投手)。
来歴・人物
鶴崎工業高校では、3年生時の1971年にエース、四番打者として夏の県大会に出場。県大会、中九州大会を通じ6試合に無失点を記録、55三振を奪う。甲子園出場を決めた中九州大会決勝では尾西和夫、春日祥之輔のいた中津工と対戦し、ノーヒットノーランを演じた。しかし本大会では1回戦で静岡学園に敗退[1]。この試合では制球を乱し、2イニングを投げたのみに終わった。
同年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。大型左腕として期待されたが、肩の故障もあってなかなか一軍には上がれなかった。1974年10月14日の長嶋茂雄の引退試合で一軍初登板を果たす。柴田勲、高田繁に連続本塁打を喫するが、この年三冠王の王貞治から三振を奪った[注 1]。中日での登板はこの1試合のみに終わり、1975年オフに西岡三四郎との交換トレードで星野秀孝と共に南海ホークスに移籍。南海でも1979年の1試合のみの登板に終わり、1980年オフに引退。
ノーワインドアップから、快速球を思い切って投げる。また外角へカーブ、シュート、内角へ速球を投げてゆさぶる投球が特徴。
社会人野球・クラブチームの大分ソーリンズ野球倶楽部で投手コーチを務めていた。また、母校の鶴崎工業高校野球部OB会会長を務めていたが、2024年1月9日に逝去[2]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974 | 中日 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 0.2 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 | 40.50 | 7.50 |
1979 | 南海 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 |
通算:2年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 10 | 1.2 | 2 | 2 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | 16.20 | 3.00 |
記録
背番号
- 25 (1972年 - 1973年)
- 32 (1974年 - 1975年)
- 45 (1976年 - 1980年)
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 藤沢哲也 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
固有名詞の分類
- 藤澤哲也のページへのリンク