薬物濫用と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/31 14:43 UTC 版)
「アルマ・ルーベンス」の記事における「薬物濫用と晩年」の解説
1927年後半には、頻繁に薬物中毒の治療のため何ヶ月も療養所に入院させられたため、仕事に多大な悪影響が出ていた。末期に演じた役の1つがトーキー版『ショウボート(英語版)』のジュリーで、最後の出演映画から1つ前の作品であり、数少ないトーキー出演作品の1つである。しかし、彼女が話している場面のサウンドトラックは失われたと思われる。 1929年2月、治療のため療養所に連れに来た医師を刺そうと試み、ルーベンスの中毒が公けに知られる事となった。間もなくスパードラ更生施設で治療を受けるよう命じられた。その後4人の看護士と2人の男性警備員の看視下にあったにも関わらず脱走した。その後パサデナの療養所に入院したが、10日後には去った。彼女が麻薬常用を再開したため、1929年5月15日に夫リカルド・コルテスとルーベンスの母親は治療のためパットン州立病院に入院させた。同病院を1929年12月下旬に退院。 1930年1月30日、ハリウッド作家クラブが演出した劇に出演し、退院以来初めて公の場に姿を見せた。彼女の演技は観衆に好評をもって迎え入れられ、8回のカーテンコールを受けた。上演後ユナイテッド・プレスのインタビューを受けて、中毒を克服したと語った。インタビューでは薬物濫用への転落と療養所での経験を詳細に話した。1930年2月上旬、薬物中毒から解放され、東部のヴォードビルツアーでカムバックする予定であると発表し、ニューヨークに向かった。滞在中に夫と共に舞台には立ったが、2週間と経たず同月中にカリフォルニアに戻った。1931年1月5日、コカイン所持及びメキシコからアメリカ合衆国へモルヒネの密輸を謀ったとして、サンディエゴで連邦捜査官によって逮捕された。ルーベンスは自分は嵌められたと訴え、医師が薬物を摂取していないという彼女の供述を裏付けた。後に5,000ドルで保釈され、1931年1月の2週目に予審に出廷した。
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