著者についての異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:17 UTC 版)
前田育徳会尊経閣文庫所蔵の『竹馬消息』が、『竹馬抄』と条文の構成、内容ともにほぼ同じで、その奥書に今川了俊の作であると記されている。『竹馬消息』は、豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原城に篭城していたものが書写したという。天正18年(1590年)6月13日と記されている。これらの根拠は不明である。この『竹馬消息』は、『竹馬抄』と第八条が大きく異なる。『源氏物語』、『枕草子』という具体的な書物の名が挙げられていない。和歌、連歌に関しても何も記述がない(「二代の集」についても)。「糸竹の道」は「弓馬のいとなみにまぎれ、あるいは都鄙のどうらんにさまたげられ、少年の比は将軍家につかへて」暇がなく中絶したとある。業平、行平、黒主の歌の記載がない、といった点である。 今川了俊説では、『竹馬抄』の第八条の、『源氏物語』、『枕草子』は重要な教養であるからよく親しむように、という教養観が、『了俊弁要抄』と同じであることが挙げられる。 第二に、同じ第八条に、「かたのごとく和歌の道に入りて、二代の集に名をかけて侍ること、」とあり、「二代の集」の解釈が分かれる点である。『群書類従』の傍注には新後拾、新続古と書いてあるが、『新後拾遺和歌集』には斯波義将の和歌は六首撰集されているが、『新続古今和歌集』の成立は永享11年(1439年)で『竹馬抄』成立の1383年頃とはかけ離れていて、「二代の集」を解釈しなおさなければならなくなる。学習院大学名誉教授筧泰彦によると「二代の集」は『新後拾遺和歌集』のことで、その理由は、後円融天皇、後小松天皇の二代に渡って撰定された勅撰和歌集はこれ以外に存在しないので、特に「二代の集」といったという(『中世武家家訓の研究』 風間書房)。『新後拾遺和歌集』の成立は至徳元年(1384年)で『竹馬抄』の成立の永徳3年(1383年)はその前年となる。今川了俊のほうは『風雅和歌集』、『新拾遺和歌集』に三首撰集されている。 『竹馬抄』と今川了俊の『難太平記』の君主への奉公、忠義の価値観を比較した場合、了俊著作説には難があるという。
※この「著者についての異説」の解説は、「竹馬抄」の解説の一部です。
「著者についての異説」を含む「竹馬抄」の記事については、「竹馬抄」の概要を参照ください。
- 著者についての異説のページへのリンク