若手記者時代とは? わかりやすく解説

若手記者時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:00 UTC 版)

緒方竹虎」の記事における「若手記者時代」の解説

1911年明治44年7月早稲田大学専門部卒業後、やはり中野正剛誘われ同年11月大阪朝日新聞社入社して弓削田精一率い大阪通信部員(東京勤務)となる。新人記者ありながら学生時代から出入りしていた枢密顧問官三浦梧楼から「大正」の年号スクープした当時朝日新聞社内において、村山龍平鳥居素川派と上野理一西村天囚派との間で激しかった派閥対立で、弓削田上野・西派に属し弓削田村山対立して退社すると、緒方1916年大正5年12月外勤外され整理課員左遷された。 だが白虹事件村山鳥居派退陣し、上野・西派が新聞編集中枢返り咲くと、同派の客員本多精一の下で30歳大阪朝日新聞社論説班の幹事抜擢され論説班を切り盛りした。この時期緒方上海特派員から大阪朝日新聞社社会部員に呼ばれた美土路昌一同宿し、友情温めた。しかし翌1919年大正8年7月村山朝日新聞社株式会社化して社長に復帰する際、実質的な大阪朝日新聞社編集局長だった西村天囚村山怒り買って退社し同年末から翌1920年大正9年年明けにかけて上野理一本多精一相次いで没すると、上野派と見られ村山によく思われていない緒方は社に居辛くなり、退社決意して、「筑豊御三家」の1人玄洋社員・安川敬一郎安川第五郎の父)の出資イギリスへ私費留学出た。 しかし緒方アメリカ経由ロンドンへ行く途中ニューヨーク特派員として赴任していた美土路昌一緒方から退社意思聞かされ美土路1921年大正10年7月東京朝日新聞通信部長として帰国した後、朝日首脳陣緒方慰留働きかけワシントン会議取材記者団参加させた。

※この「若手記者時代」の解説は、「緒方竹虎」の解説の一部です。
「若手記者時代」を含む「緒方竹虎」の記事については、「緒方竹虎」の概要を参照ください。

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