若手記者時代
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1911年(明治44年)7月に早稲田大学専門部を卒業後、やはり中野正剛に誘われ、同年11月大阪朝日新聞社に入社して弓削田精一率いる大阪通信部員(東京勤務)となる。新人記者でありながら、学生時代から出入りしていた枢密顧問官・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープした。当時の朝日新聞社内において、村山龍平・鳥居素川派と上野理一・西村天囚派との間で激しかった派閥対立で、弓削田は上野・西村派に属し、弓削田が村山と対立して退社すると、緒方は1916年(大正5年)12月、外勤を外され整理課員に左遷された。 だが白虹事件で村山・鳥居派が退陣し、上野・西村派が新聞編集の中枢に返り咲くと、同派の客員、本多精一の下で30歳で大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢されて論説班を切り盛りした。この時期、緒方は上海特派員から大阪朝日新聞社社会部員に呼ばれた美土路昌一と同宿し、友情を温めた。しかし翌1919年(大正8年)7月に村山が朝日新聞社を株式会社化して社長に復帰する際、実質的な大阪朝日新聞社編集局長だった西村天囚が村山の怒りを買って退社し、同年末から翌1920年(大正9年)年明けにかけて上野理一、本多精一が相次いで没すると、上野派と見られて村山によく思われていない緒方は社に居辛くなり、退社を決意して、「筑豊御三家」の1人の玄洋社員・安川敬一郎(安川第五郎の父)の出資でイギリスへ私費留学に出た。 しかし緒方がアメリカ経由でロンドンへ行く途中、ニューヨーク特派員として赴任していた美土路昌一が緒方から退社の意思を聞かされ、美土路は1921年(大正10年)7月に東京朝日新聞社通信部長として帰国した後、朝日首脳陣に緒方慰留を働きかけ、ワシントン会議取材の記者団に参加させた。
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