若手議員時代
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1967年(昭和42年)、父の地盤を継承して第31回衆議院議員総選挙に自民党公認で初出馬、トップ当選を果たす(当選同期に山下元利・増岡博之・加藤六月・塩川正十郎・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・水野清など)。自民党では父が率いた河野派の流れをくむ中曽根派に入会。しかし1970年の佐藤首相の四選をめぐる党内の議論では、派閥の現実路線に反して四選阻止を訴えるなどスジ論を主張した。 1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣の文部政務次官に就任。 若手時代は「自民党のプリンス」と呼ばれ、勉強会「政治工学研究所」(政工研)を主宰。超派閥的に党内左派の中堅・若手議員を従える立場にあった。1974年(昭和49年)の田中角栄内閣の総辞職に伴う後継総理・総裁選出に際しては、公選が行われることを見越しての河野擁立運動が政工研を中心に展開された。しかし、話し合いによる後継者決定(椎名裁定)が当時の実力者の間で既定路線となっていたこともあり、擁立運動は挫折した。また、三木内閣発足時には環境庁長官への起用が予定されていたが、党内左派の反発で流れた。
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