若手落語家のトップ・日本芸術協会を結成
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「春風亭柳橋 (6代目)」の記事における「若手落語家のトップ・日本芸術協会を結成」の解説
5代目「春風亭枝雀」になった柳橋は芸力に恵まれ若手落語家として将来を嘱望されていた。睦会には真打が足りなかったこともあり、若手落語家4人を次々と真打ちとして大々的に売り出し、話題作りとした。それが7代目「春風亭柏枝」を襲名した柳橋のほか若き日の8代目桂文楽・桂小文治・3代目春風亭柳好であり、後に「睦の四天王」と呼ばれたが、柳橋は四人の中で一人飛びぬけた存在であった。当時大阪で『子別れ』を演じたとき、余りの出来の良さに大阪の客から「江戸っ子の腕で打ったる鎹は浪花の空に柏枝喝采」の狂歌を贈られた。『湯屋番』で若旦那が妄想のあまり番台から落ちる場面で座布団から転がり落ちるなどの明るく派手な演出を試み、4代目春風亭小柳枝を経て6代目春風亭柳橋襲名後はさらに伸びを見せ、所属していた落語睦会を脱退して当時柳家金語楼とともに日本芸術協会を結成して会長に就任した。新作派の金語楼に影響を受けて古典を時代に合わせて改作した『支那そば屋』『掛取り早慶戦』などを手がけ、伝統芸をベースに斬新な落語を創造するなど旺盛な活躍を見せ、順調極まる落語家としての成育歴が芸風に生かされて人気・実力共に若手落語家のトップランナーと評価された。圓生は、当時柳橋がどこまで上手くなるのか空恐ろしくなり、本気で弟子になろうかと思ったと述懐している。若手から中年期まで芸の伸び・売出しの勢い・出世のペース等は常に柳橋が圓生を圧倒し、圓生自身は柳橋の様には生涯なれないと思っていた。
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