自立から専制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 08:11 UTC 版)
その後、綱村は13歳ながら自ら政務を執り始める(補佐に富田氏紹)。まず防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収めた。また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、元禄2年(1689年)から3年(1690年)にかけて日光東照宮修復総奉行・井伊直興の御手伝として東照宮の修復を果たした。しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと天和3年(1683年)に藩札の発行を行なったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。 平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は、天和3年(1683年)に綱村によって建立された。京都にある葉室家の菩提寺・浄住寺の方丈は元禄10年(1697年)に綱村の屋敷を移築したもの。 元禄6年(1693年)、藩主・綱村中心の専制政治に対し、伊達一族は反発、諌言に及ぶ。そのため、綱村は謝罪状をしたためる。元禄10年(1697年)秋、綱村の政治姿勢は改まらず、家臣団は藩主の強制隠居を計画するものの、親族の稲葉正往(越後高田藩主)らの反対で挫折する。 元禄15年(1703年)、元禄赤穂事件では、仙台藩邸前に兵を待機させ義士の通行を阻止した。赤穂義士は伊達家の藩邸を通らない経路で泉岳寺へ引き上げている。 元禄16年(同1703年)、養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。 享保4年6月20日(1719年8月5日)、死去。享年61(満60歳没)。法号は大年寺殿肯山全提大居士。墓所は仙台の大年寺。大正13年(1924年)に従三位を追贈されている。
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