自ら離脱したとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:04 UTC 版)
一方2007年7月に、ラグビーライターの永田洋光が『勝つことのみが善である 宿沢広朗全戦全勝の哲学』を著し、宿沢が自らの意思でラグビー協会を離脱したとする説を唱えている。 永田は、2002年に宿沢との聞き語りと言う形で『日本ラグビー復興計画』(阪急コミュニケーションズ)を出版しており、その中に協会の体質を宿沢が批判している一節がある(上述の川渕三郎との対談)。 宿沢の描いたラグビー協会の未来像として「従来の関東・関西・九州の3つに分かれている地域協会の統合」があり、真下昇専務理事の率いる地域協会存続派との対立を招いたとしている。宿沢は、加藤仁の著作にも登場する東芝副社長・町井徹郎をそうした地域の利害関係が全くなく、国際感覚や大企業で副社長まで登りつめた手腕に対して高く評価しており、会長選挙立候補を宿沢がお願いしていたという(なお、宿沢は代表監督や強化委員長を務めた際、サラリーマンとしてある程度の地位を持った日本代表経験者を自らのブレーンに据えた。宿沢の代表監督時にFWコーチだった笹田学は横河電機常務執行役員、強化委員長時代の副強化委員長・上田昭夫はフジテレビスポーツ局担当部長を務めている)。 加藤仁の著した解任説については「どんなに取材をしても裏を取れなかった」と否定し、宿沢の中に「ラグビー協会に関わるのが『馬鹿馬鹿しい』『つまらない』」との意識が芽生え始めたとしている。これはラグビー協会での会議と家族との重要なイベントが重なってしまった際に、結局は協会の仕事を優先させた事に根拠がある。 ラグビー協会の体質として「協会にとって、ワールドカップとは遠い世界の話だった。大学ラグビーのOB親睦会のような組織のようでは、世界の流れについていけない」として、協会の閉鎖的体質を指弾している。宿沢が急逝する前の一年間のラグビー協会を巡るトラブル(日本代表選手・コーチによる暴力事件、テストマッチにおける無残な敗退)などを踏まえて、宿沢自身が「ラグビー協会とは少し距離を置いたほうが良い」と考えるようになったという。 上述の「討議事項がすり替わっていた」トラブルについて、真下昇は「宿沢はその会議には欠席した。議事録云々の問題ではない」と発言している。 永田はこの『勝つことのみが善である 宿沢広朗全戦全勝の哲学』の著作で、2007年のミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞した。
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