育英公院の運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 20:56 UTC 版)
教師の到着によりまず学校運営の指針を議論し、陽暦1886年9月17日、「育英公院設学節目」が制定される。講義は英語で行われ、教科書も英語のものが採用された。しかし学生達は最初はアルファベットも分からないため、同文学出身者が助教として通訳を担当した。これはしばらくして英語学習の効果が薄れるとして廃止される。育英公院は左院と右院のふたつの班に分かれ、左院は若い現職官吏から選抜され、右院は聡明な15〜20歳の若者から選抜された。運営費は戸曹と宣恵庁が半分ずつ負担した。試験は国王の前で行われた。 このように国家事業として進められた新式学校である育英公院であったが、学生は教師の期待するほどに熱心な態度を取らなかった。両班の子弟であるため学校には輿で入り、従僕を従えていた。病や公務を言い訳にした欠席も非常に多かった。一方、教師達は自らが受けたエリート教育を学生に注力しようとしたため、教師と学生間での衝突と不信任も問題となった。学生の立場から理由を考えれば、育英公院で英語や新知識を学んでも、結局科挙に及第しなければ出世ができないというジレンマがあった。即ち、出世を望むのであれば第一に勉強しなければならないのは科挙及第のための儒学だったのである。政府もこの問題を理解し、1889年には育英公院の学生に対し科挙試験において優遇策を取ったが(育英公院学員試講)、それも科挙の範疇を出るものではなかった。 1889年、2年の契約満了後、継続するか否かでなかなか決定が下りなかったが、継続することに決まる。しかし、ギルモアは給料が少ない事を理由に賃上げ(300ドル)を要求し、それが認められないと帰国した。それにより教師は2人になったので、結果として残った2人の賃金は引き上げられた(225ドル)。 1891年、再び契約が満期になる。この時には育英公院の効果が現れないがために政府と国王は興味を失っていた。結果、バンカーのみ3年の契約を結び、ハルバートは帰国する。その後、バンカーが独り教師として取り仕切るが、意欲が萎えたのか契約が終了する前、1894年2月に辞意を表明した。バンカーはその後培材学堂の教師になる。 バンカーが教師を辞めた後、4月に日本・神戸駐在アメリカ領事であったニンステッド(F. H. Nienstead)が育英公院教師として1年の契約を結んだ。更に江華島で英語を教えていたイギリス人ハチソン(W. du F. Hutchison)が学生を率いて教師になった。その結果、元々在籍していた学生4人と合わせて64人が育英公院で学ぶ事になる。しかし、1年後の契約満了時に朝鮮側は契約更新をしない事に決定し、育英公院は1895年4月25日に名目上廃止となった。同年5月10日、朝鮮政府は「外国語学校官制」を発布し官立英語学校を設立する。育英公院の学生はこの英語学校に移管し、また校舎も育英公院の建物をそのまま使用した。よって育英公院は官立英語学校に継承されたと言える。
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