育英公院設置の決定と教師の招聘とは? わかりやすく解説

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育英公院設置の決定と教師の招聘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 20:56 UTC 版)

育英公院」の記事における「育英公院設置の決定と教師の招聘」の解説

英語学校としては1883年に「同文学」という先駆的な学校がすでにあったが、同文学の事業は短いものであった。その在校生育英公院助教となるなど、同文学の経験育英公院引き継がれている。 育英公院構想1882年結ばれた米朝修好通商条約締結返答として1883年閔泳翊を代表とする報聘使派遣に始まる。この時の視察報告により新式教育機関設置進言され、1884年9月国王高宗育英公院設置許諾する。それを受けてフット(L.H.Foote)駐韓アメリカ公使本国国務長官に若い教師選抜派遣要請した。しかし、この計画途中12月急進開化派クーデター(甲申政変)が起こる。そのクーデター失敗し急進開化派撤退することになるが、開化事業自体穏健開化派によって続けられた。 教師派遣要請受けたアメリカ内務省教育局(Commissioner of Education)が主管となり教員選抜当たった外国派遣する教師宣教兼ねて神学生が適当であろうとの判断からニューヨーク市ユニオン神学校(Union Theological Seminary)の学生から選抜することになった。そうして選ばれたのがハルバート(Homer. B. Hulbert)、ボーン(H. E. Bourne)、ギルモア(George W. Gilmore)である。甲申政変により出発遅れたが、1885年4月人選選抜修了朝鮮報告した合わせて給料交渉があり、教師1人につき125ドル旅費600ドル、更に帯妻者1人(ギルモア)の妻の旅費支払い要求する朝鮮側はこれを受諾した出発間近になってボーン渡韓抛棄し、代わりにバンカー(Delzell A. Bunker)が参加ハルバートギルモア夫妻合わせて4人が渡韓する。彼等1886年5月22日アメリカ出発し6月12日横浜到着続いて7月4日韓国到着した

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