肥料鉱物調査所の廃止と退官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
「恒藤規隆」の記事における「肥料鉱物調査所の廃止と退官」の解説
肥料鉱物調査所が開設されていた20世紀初頭は、日本とロシアとの関係が緊迫していった時期と重なっていた。ロシアとの開戦の恐れが高まっていく中で、政府はまず軍備増強に注力せねばならなくなっていた。軍備増強の予算をひねり出す方策の一つとして進められたのが行政機関の整理であった。また同時期、農商務省内では組織の改編が進められていた。工業が発展していく中で当時、世界各国で度量衡の標準化と供給が大きな課題となっていた。各国は度量衡に関する国家機関の設置、整備が進められ、日本でも中央度量衡研究所が設立されることになった。 戦時体制を強化していく中で行政機関の整理が求められ、しかも農商務省では組織改編が進められていた。そのような中で肥料鉱物調査所と塩業調査所の廃止が決定された。リン鉱石など鉱物性の肥料原料の調査、研究は農業試験場が引き継ぐことになった。恒藤は南鳥島で有望なリン資源が見つかり、これから本格的な南方の島々でのリン鉱石探査に乗り出そうとしている矢先に、重要な調査機関である肥料鉱物調査所の廃止を決定したことは極めて無謀であり、政府が国富の開発に無頓着であることを示したと憤慨した。結局恒藤は1903年12月5日の肥料鉱物調査所廃止と同時に退官した。 恒藤は一民間人としてリン鉱石探査に乗り出す決意を固めた。 肥料鉱物研究所の廃止と共に、断然官を去り、意を決して独力を以てリン鉱の探査を継続せんと欲し、もとより貧弱にして余裕の無き私財を傾けて南方諸島の探検に従事したのである 退官によって恒藤はまずリン資源探検家となった。また恒藤の退官後、部下であった松岡操も退官して恒藤のもとで働くことになった。
※この「肥料鉱物調査所の廃止と退官」の解説は、「恒藤規隆」の解説の一部です。
「肥料鉱物調査所の廃止と退官」を含む「恒藤規隆」の記事については、「恒藤規隆」の概要を参照ください。
- 肥料鉱物調査所の廃止と退官のページへのリンク