職業騎手となる
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1908年8月、東京で園田実徳お抱えの騎手兼調教師を務めていた菅野小次郎が、馬市参加のため北海道を訪れ、牧場での藤吉の乗馬姿に目を留め、自らの弟子とすることを哲三に提案する。藤吉が同座したのち菅野があらためて入門を誘うと、藤吉は二つ返事で了承し、翌日には御料牧場を離れ上京の途に就いた。目黒の厩舎に到着してから正式に菅野に弟子入り。兄弟子には後に藤吉の弟子となる内藤潔の父・内藤清一がいた。 2年弱さかのぼる1906年秋、東京競馬会・池上競馬場で行われた馬券発売を伴う開催が多額の収益を挙げ、これに触発された全国各地に競馬倶楽部が続々と設立された。競馬は軍馬の改良や、そのために必要な馬産振興といった公益的な名目の下に行われ、それを担う競馬主催者の収入源として、馬券発売は「黙許」という形になっていた。しかし営利目的による競馬開催の横行や、観客の射幸心の挑発、競馬場内における騒擾事件の頻発などといった風紀紊乱の弊害を問題視され、藤吉の上京からわずか2カ月後の1908年10月6日をもって馬券発売は全国的に禁止された。これにより財源を失った各地の競馬主催者は大打撃を受け、藤吉の先行きもにわかに暗いものとなった。「もし競馬ができなくなったら、陸軍の調馬師にでもなるがいい」と、菅野が藤吉に陸軍馬術教範を与えたほどであった。しかし政府からの補助金を頼りに競馬開催そのものは続けられることになり、12月13日の目黒秋季開催3日目、内国産呼馬競走で藤吉は騎手として初騎乗した。4頭立ての全てが園田実徳の所有馬で、藤吉はホクエン、菅野がここまで13戦全勝、帝室御賞典にも優勝していたシノリに騎乗していた。藤吉は最後にシノリを追い込み、1着同着という結果で初騎乗初勝利を挙げた。なお、藤吉は「確かに頭ひとつだけ勝った」が「馬券はないし、2頭とも園田氏の所有馬だし、シノリの14戦目も1着という記録にしておきたかったのだろう」と述懐している。 以後も補助金頼みの競馬開催が続くなかで藤吉も騎手として活動したが、観客の少ない寂しいものであったという。1908年秋季開催における全国7競馬会の一般入場者数は、1競馬場あたり1日平均20人という少なさだった。なお、1909年8月、母方の尾形家の相続人が早世したことから、藤吉が代わって家名を継ぎ、大河原藤吉から尾形藤吉へと改姓した。
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