職業騎手となるとは? わかりやすく解説

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職業騎手となる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 03:25 UTC 版)

尾形藤吉」の記事における「職業騎手となる」の解説

1908年8月東京園田実徳お抱え騎手調教師務めていた菅野小次郎が、馬市参加のため北海道訪れ牧場での藤吉乗馬姿に目を留め、自らの弟子とすることを哲三に提案する藤吉同座したのち菅野あらため入門を誘うと、藤吉二つ返事了承し翌日には御料牧場離れ上京途に就いた目黒厩舎到着してから正式に菅野弟子入り兄弟子には後に藤吉弟子となる内藤潔の父・内藤清一がいた。 2年弱さかのぼる1906年秋、東京競馬会池上競馬場行われた馬券発売を伴う開催多額収益挙げ、これに触発され全国各地競馬倶楽部続々設立された。競馬軍馬改良や、そのために必要な馬産振興といった公益的名目の下に行われ、それを担う競馬主催者収入源として、馬券発売は「黙許」という形になっていた。しかし営利目的による競馬開催横行や、観客射幸心挑発競馬場内における騒擾事件頻発などといった風紀紊乱弊害問題視され藤吉の上京からわずか2カ月後の1908年10月6日をもって馬券発売全国的に禁止された。これにより財源失った各地競馬主催者大打撃を受け、藤吉先行きにわかに暗いものとなった。「もし競馬ができなくなったら、陸軍調馬師にでもなるがいい」と、菅野藤吉陸軍馬術教範与えたほどであった。しかし政府からの補助金頼り競馬開催そのもの続けられることになり、12月13日目黒秋季開催3日目内国呼馬競走藤吉騎手として初騎乗した。4頭立て全て園田実徳所有馬で、藤吉ホクエン菅野ここまで13全勝帝室御賞典にも優勝していたシノリに騎乗していた。藤吉最後にシノリを追い込み、1着同着という結果初騎乗初勝利を挙げた。なお、藤吉は「確かにひとつだけ勝った」が「馬券はないし、2頭とも園田氏の所有馬だし、シノリの14戦目も1着という記録にしておきたかったのだろう」と述懐している。 以後補助金頼み競馬開催が続くなかで藤吉騎手として活動したが、観客少な寂しいものであったという。1908年秋季開催における全国7競馬会一般入場者数は、1競馬場あたり1日平均20人という少なさだった。なお、1909年8月母方尾形家の相続人早世したことから、藤吉が代わって家名継ぎ大河原藤吉から尾形藤吉へと改姓した

※この「職業騎手となる」の解説は、「尾形藤吉」の解説の一部です。
「職業騎手となる」を含む「尾形藤吉」の記事については、「尾形藤吉」の概要を参照ください。

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