耐久試験と補充馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/09 03:57 UTC 版)
「ウィリアム・ロビンソン・ブラウン」の記事における「耐久試験と補充馬」の解説
ブラウンは交代馬エージェントであり、アメリカ陸軍交代馬委員会に務め、アメリカ騎兵隊に使われる馬の性能改良に関する興味がアラブ種馬を育成する動機になった可能性がある。スペンサー・ボーデンは交代馬種としてのアラブ種馬に関する興味をブラウント共有していた。ブラウンはアメリカ陸軍交代馬サービスに対して、アラブ種馬の優れた耐久性と持久力について証明しようと考え、耐久レースへのアラブ種馬の参加を積極的に奨励した。持ち馬の大半に騎乗の訓練をさせた。多くは耐久レースで使われ、少なくとも1頭はポロ・ポニーだった。 1918年、ブラウンは試験騎乗を行わせ、持ち馬のうち2頭にバーリンからメイン州ベセルまで162マイル (261 km) を移送させた。この馬は休憩を含めて31時間で走破し、悪い気象条件とぬかるみ道を、騎手と装備合わせて200ポンド (91 kg) を運んだ。その馬は、1頭が純血7歳の牝馬であるケイラであり、馬体重は900ポンド (410 kg) と、もう1頭はクレイ繋駕速歩レース馬の系統を引くスタンダードブレッド牝馬であるカールドによる半分アラブ種のラステムベイだった。ラステムベイの方がケイラより背高と馬重が大きかった。どちらも騎乗が終わった時点で獣医の検査を受け、続けて騎乗しても健全で適応できると判断され、24時間後にも特に異常が見られなかった。3頭目の馬であるハーバート・ブラウンのクラベットは、試験を監督した軍人が騎乗し、17時間で95マイル (153 km) を移動した。これらの試験結果は「ニューヨーク・タイムズ」で報告された。 1918年の試験に続いて、ブラウンは1919年に最初のアメリカ合衆国公式騎兵馬耐久騎乗の組織化に貢献し、その持ち馬の牝馬ラムラが200ポンド (91 kg) を運んで優勝した。このレースは5日間で306マイル (492 km) を移動するものだった。アメリカ合衆国交代馬サービスは1920年に馬が運ぶ重量を245ポンド (111 kg) に上げることを求め、5日間で1日平均約60マイル (97 km) 進むことを求めた。この年、アラブ種は1位にはならなかったが、どの種よりも高い平均点を獲得した。ラステムベイが2位に入った。1921年、携行重量が225ポンド (102 kg) となり、この年も5日間で300マイル (480 km) を移動するレースとなり、ブラウンのせん馬であるクラベットが優勝し、ラステムベイは3位に入った。この年、ジョッキー・クラブがアメリカ陸軍に5万ドルを寄付して最良のサラブレッド種馬を買わせたが、アラブ種馬に勝てなかった。ブラウンは1923年にもゴウヤというアングロ・アラブ種で勝利し、アメリカ合衆国交代馬サービスカップを持ち帰った。 ブラウンは交代馬サービスが所有するアラブ種牡馬を種馬として使い、長い間には、自身の種牡馬から32頭の仔馬も生ませていた。種の改良のために交配も提唱した。しかし、大きさを増すために純血種アラブ種馬を養育することは、その性能とタイプを犠牲にするという結論になった。
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