美祢市の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
戦後、炭鉱の活気が戻り、炭鉱労働者とその家族のが住む白岩と豊浦の社宅が増築されていく中で、戦後まもなくは閑散としていた麦川と豊田前の町は発展していく。麦川の町は、戦後まもなくは川の流れも澄んでいて夏にはホタルが見られたというが、あっという間に川の水は真っ黒になってホタルも魚もいなくなり、川底に粉炭が厚く積もるようになったため、町の人たちは粉炭をすくって燃料にするようになった。商店街は賑わい、給料日には麦川の旅館の宴会場は貸し切り状態となり、社宅からの家族連れがよくフグを食べにやって来たという。また商店街で売られている品物は飛ぶように売れた。 山陽無煙炭鉱の福利厚生施設である豊浦会館、白岩集会場が完成すると、多くの芸能人が公演を行うために麦川の旅館に宿泊するようになった。また選挙の際には立候補者や支援者がやはり麦川の旅館に宿泊して、選挙活動のために社宅を回った。 豊田前は戦後、商店が次々と店を開いたため、表通りばかりではなく裏路地まで店が並ぶようになった。映画館がオープンしてレイトショーを行ったり、ダンスホールなどが出来たため、商店街は深夜まで賑わっていた。もちろん小料理屋や居酒屋もあって連日のように朝まで賑わっていた。また社宅に住む主婦や商店で働く女性たちを相手とする美容室も繁盛していたという。給料日の活気はまさにお祭り騒ぎで、大勢の人たちでごった返している上に、出店もやって来て戸板の上に商品を並べ、威勢の良い呼び込みで客に声をかけていた。 戦後、炭鉱で働くようになった人たちの中には、戦前、外地で働いていたが文字通り身一つで引き揚げざるを得なかった人たちも多かった。彼らはいざというときに役立つからという理由で子どもたちの教育に熱心であった。そのため豊田前には学習塾が出来て、また学校のPTA活動も盛んになった。 もともと農村集落が点在する中に山陽無煙炭鉱の大規模社宅が立ち並ぶようになると、大嶺炭田内の町村間に合併の機運が高まっていく。特に山陽無煙炭鉱や他の炭鉱ののお膝元である大嶺町は、豊富な鉱産税収入で山口県下ではその発展が注目されていて、隣の伊佐町の熱心なバックアップを受けて大嶺町主導による合併に向けての地元世論が形成されていった。まず美祢郡内の大嶺町、伊佐町、於福村、東厚保村、西厚保村の5つの町村の合併についての話し合いが先行したが、やがて豊浦社宅を抱える豊浦郡豊田前町も合併に加わる機運が高まった。結局1954年(昭和29年)3月31日、大嶺町、豊田前町、伊佐町、於福村、東厚保村、西厚保村の3町3村が合併して美祢市が誕生した。
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