美祢層群と厚保層群の層序上の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:15 UTC 版)
「美祢層群」の記事における「美祢層群と厚保層群の層序上の問題」の解説
美祢層群を表す記述は、1891年に横山又次郎により山野井に分布する三畳系を「coal-bearing series of Nagato」(長門の夾炭統)として呼称されたのが最初で、1963年に河合により美祢層群が厚保層群の上位に整合に重なるとされ、両層群を亜層群としその高次層序単元として長門層群が使用された。独自研究による地質図が掲載された他の報告においても、美祢層群と厚保層群との関係は、一部の文献を除き層序が確立された頃から一貫して整合関係、または軽微な不整合関係にあるとされているが、この問題について議論はなされていない。 なお、1931年の小林による地質図に示されるように、美祢層群と厚保層群を伊佐-杉原断層を境に別の層群として扱う概念は、1927年に小澤儀明により随光石灰岩(厚保層群本郷層中に分布)がスキティック(=前期三畳紀)のものとされ厚保統(=厚保層群)が提唱されたことに始まるが、1940年の小林による報告では、厚保地区に大嶺地区の美祢層群平原層が連続分布し、また厚保層群上部が美祢層群最下部の滝口層に対比されるとし、1951年の小林による報告では厚保地区の厚保統が美祢統として一括して扱われる分布図や記述もある。1962年の徳山による報告において再び、境界断層より南側の厚保地区において、大嶺地区の美祢層群に相当する部分が江の河原層とされ、厚保層群として扱われたが、両者が整合関係にあることは変わらない。その後、境界断層の位置は改変されるとともに大嶺地区との構造的連続性が示され、厚保地区における美祢層群平原層より上位の層序は長府花崗岩の大規模貫入によって失われた形となっている。
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