練習戦艦に改装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 09:34 UTC 版)
列強各国は戦艦の大量建造と維持に多額の予算を投じたが、やがて軍縮の気運が高まった。1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約により大型艦の建造を自粛する海軍休日が始まる。軍縮の影響は比叡にも及んだ。比叡は1929年(昭和4年)10月15日より呉海軍工廠にて第一次改装に着手するが、ロンドン海軍軍縮条約成立により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになる。そのため、金剛型で工事の一番遅れていた比叡が選ばれた。工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年(昭和7年)12月31日に完了。翌1933年(昭和8年)1月1日に練習戦艦に類別変更された。この工事により要目は以下のようになった。外見上の特徴は4番砲塔を撤去したことで、撤去跡にバラスト500 tを搭載して艦のバランスが崩れることを防いでいる。なお舷側装甲は廃棄されず、将来を見越して倉庫で保管されていたという。なお1934年(昭和9年)9月25日に軍令部が制作した昭和十五年末(条約決裂後)の国防要所兵力表で、既に比叡の戦艦復帰の方針が示されている。 基準排水量:19,500 t 主缶:ロ号艦本式大型2基、同小型3基、同混焼缶6基 出力:16,000馬力 速力:18 kt 兵装35.6cm連装砲3基 15.2cm単装砲16門 8cm単装高角砲4門(後日12.7cm連装高角砲4基に交換と推定される) 航空兵装、水雷兵装は全廃された。改装中の1931年に横須賀鎮守府に移籍している。
※この「練習戦艦に改装」の解説は、「比叡 (戦艦)」の解説の一部です。
「練習戦艦に改装」を含む「比叡 (戦艦)」の記事については、「比叡 (戦艦)」の概要を参照ください。
- 練習戦艦に改装のページへのリンク