緑地保全地区制定
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「狛江弁財天池特別緑地保全地区」の記事における「緑地保全地区制定」の解説
1962年(昭和37年)に定められた都市計画では、現在の管理区域を含む狛江駅北口周辺には駅前広場と道路が作られることになっていた。この都市計画をもとに、1979年(昭和54年)から狛江駅北口再開発計画が進められた。この計画では、泉龍寺境内に幅16メートルの道路が通り、現在の保全地区及びその周辺は駅前広場と中高層ビルが建てられる予定となっていた。 この計画は1982年(昭和57年)、狛江駅北口地区市街地再開発等調査・整備構想案としてまとめられ、市民に公開された。しかし、この計画には反対の声があがり、住民によって、この年から反対運動・緑地保全運動が盛んになった。この運動には泉龍寺も加わり、市長に陳情書が出された。 1984年(昭和59年)、市長は、関連住民の理解等が得られるまでは次の段階に進まないこと、計画や情報は公開して話し合いの場を設けることを文書で約束した。反対住民は、この再開発計画は自分たちだけでなく市民全体の問題であると考え、賛同者を募った。そして任意団体「狛江駅北口問題を考える市民の会」(以下「市民の会」)を発足させた。 狛江市は、このまま再開発計画を進めることは困難であると判断し、市が作った案を棚上げした。そして、考える会を整備計画を進める組織として位置付けた。市は市民に対して考える会への参加を呼びかけ、考える会は市のアドバイスを受けながら計画案をまとめた。計画案は駅前の緑地と水辺を残すもので、市はこれを採用した。さらに、駅前に残された樹林地を自然公園にしようという運動も起きた。この案は市民団体「狛江駅北口に自然公園の実現を目指す連絡会」によって署名運動がなされ、市議会等に請願書が出された。議会は請願を採択した。 最終的に市は緑地保全地区を受けることを決定し、1987年(昭和62年)8月13日、東京都によって緑地保全地区に指定された。
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