綱憲から重定まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:29 UTC 版)
綱憲は華奢な生活や吉良家への財政支援などにより藩財政を悪化させる。綱憲の時代の1702年(元禄15年)に赤穂藩浪士の吉良邸討ち入りがあった(元禄赤穂事件)。これにより綱憲の実父の吉良義央が討たれ、次男の義周は信濃諏訪藩に流罪となり同地で死去している。この事件を扱った作品群(忠臣蔵)では吉良家との関係から上杉家が登場してくることも多いが、事件当時すでに死去していた江戸家老千坂兵部が大石内蔵助と頭脳戦を展開したり、出兵しようとする綱憲を押しとどめたりと事実と異なる設定も多い(近年は事件時に生存していた江戸家老色部又四郎に差し替えられていることも多い)。討ち入りの際に出合って吉良家臣で最も奮戦したと伝わる山吉新八郎は元上杉家臣で義周に従って吉良家の家臣になっていた人物だった。綱憲は事件後の2年後に病気を理由に家督を長男の吉憲に譲って隠居した。 吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去し、長男の宗憲が第6代を継ぐが、宗憲も享保19年(1734年)に死去し第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ短期間で入れ替わった。 第8代は宗房の弟の重定が継ぐ。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。 藩主が頻繁に入れ替わったため、藩政の実権は筆頭奉行の清野内膳が掌握したが、清野は宝暦6年(1756年)に辞職するまで藩政改革に手をつけず、何ら為すところが無かった。重定の時代には与板組の下級武士ながら寵愛されていた側近の森平右衛門利直が出世して実権を握った。森は租税の増収を図り、郷村の統制機構を整備して年貢の増徴を図ったが、一方で自らの親類を側近に取り立てたり人事や賞罰を独断して行うなど専横が強まり、藩政は腐敗したため、宝暦13年(1763年)2月に森は竹俣当綱により誅殺された。
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