組織及び人員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:39 UTC 版)
海兵は、砲兵及び歩兵の両科に区分された。水兵本部がこれを統括し、各艦船の定員に応じて分乗した。艦船内ではこれを海兵部と称した。水兵本部には、本部、砲兵科、歩兵科が置かれたほか、楽隊・鼓隊も付属された。 曹長以下の者(下士・卒)は、元来は陸軍兵より海兵に転じたものであった(当時の階級については日本軍の階級参照)。明治4年10月、海兵士官学校が設けられ。教官にはイギリス海兵隊のブルンクリー大尉が就任し、第1回入校生徒としては酒井忠利(後の海軍少将)らがいた。 当初の構成は次の通りである。 水兵本部に、本部長心得は唯武連中佐、次官心得は大野義方少佐及び松岡方祇少佐。本部事務課に、主任本島芳武大尉以下9名、生徒掛4名、会計掛4名。 砲兵科に、砲兵科令長は大野義範少佐、同副長に肥田有年少佐。柴山矢八大尉以下、士官22名、曹長1名、軍曹12名、伍長20名、砲兵312人、会計掛1名、給養掛秀島成績中尉以下3名。 歩兵科に、歩兵科大隊長は徳田盛芳少佐、同副長は村岡道純大尉。牧兼甫大尉以下、士官37名、曹長2名、軍曹37名、伍長46名、歩兵714人、会計掛1名、給養掛2名。 楽隊に、隊長1名、楽長1名、楽師4名、楽手59人。 鼓隊に、鼓次長3名、鼓手70人。 海兵規則取調掛尾本知道大尉以下5名。通訳掛3名。隊付医官は島輝大軍医以下10名。 海兵隊が廃止された際には、士官は、海軍士官として勤続するか、退職帰郷するか、陸軍士官に転職するか、各自の希望に沿った処置がされ、陸軍への転職者がかなり多数であった。 海兵士官学校は海兵隊廃止と共に閉校されたので、在学していた本科生は、海軍兵学校生徒に編入されて、特別即成の教育を受けて、1876年(明治9年)12月に同校を卒業した。予科生徒も海軍兵学校に転学し、1881年(明治14年)9月10日に卒業した。海軍兵学校に転じた予科生徒には志摩清直もいた。海兵隊廃止後は、海軍陸戦隊が海兵隊に近い任務を担った。 在隊した著名人としては、田中穂積(明治6年5月31日に命5等鼓手。後に海軍軍楽師(准士官)。)もいる。
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