筑前の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)
「岩屋城の戦い」および「立花山城の戦い」も参照 秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は1586年(天正14年)6月、筑前への侵攻を開始した。6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代に到着した。そして、島津忠長・伊集院忠棟が先陣を勤め、これに島津忠隣・新納忠元・北郷忠虎・川上忠堅らが続く形で、大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城(佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。7月6日、筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した。 秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として先ず黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。ただし、秀吉は国分執行が順調に進まない場合も想定して、輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利勢のほか讃岐国高松城主の仙石秀久、土佐国岡豊城主の長宗我部元親にも軍勢を率いての九州渡海を命じている。一方、島津軍は7月12日に本陣を筑前天拝山(福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運の守る筑前岩屋城(福岡県太宰府市太宰府)、紹運長男で19歳の立花宗茂の守る立花山城(福岡県糟屋郡新宮町立花)、紹運次男で13歳の高橋統増(のちの立花直次)の守る宝満山城(太宰府市北谷)を攻撃目標に定めた。 7月13日以降、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の強い抵抗によって攻めあぐねた。立花宗茂は立花山城への合流を勧めたが、父紹運はわずか700名の兵によって島津勢をひきつけ、これを持ちこたえて秀吉の援軍を待つべしと主張した。島津軍は、7月27日にようやく岩屋城を陥落させたものの、上井覚兼は負傷、死者数千名の大損害を出すという大誤算であった。大友方は、紹運が自刃、千余名にふえた城兵はすべて討死という壮絶な戦いであった。 島津勢は8月6日には宝満山城も陥落させたものの、立花山城については立花宗茂の守りが堅固でなかなか攻め落とせなかった。攻め手の将である島津忠長と伊集院忠棟は宗茂を寝返らせるよう降伏勧告をおこなったが、宗茂がこれを断り調略が奏功しないなか、毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍したとの報に接した。そこで8月24日、島津勢は、立花城攻めをあきらめて包囲を解き、立花城近くの高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町上須恵)に星野鎮胤・星野鎮元はじめ押さえの兵を割いて撤退を開始した。こののち、宗茂は翌8月25日に高鳥居城を奪取、8月末までには毛利先遣軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した。
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