筑前侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:33 UTC 版)
詳細は「岩屋城の戦い」を参照 島津家では道雪の死を契機に筑前進出を行なった。大友家の本国である豊後に攻め込むには筑前には有力な大友方である立花山城の立花宗茂(統虎)や岩屋城の高橋紹運、宝満城の高橋統増(立花直次)らが存在しており、これらを討たなければ豊後攻略の際の妨害になる可能性があったためである。1586年(天正14年)7月14日、義久は従弟で老中かつ大隅串良地頭を務める島津忠長を総大将とした島津軍で、岩屋城を攻撃した。岩屋城は紹運の奮戦空しく落城したが、島津軍はこの城攻めでかなりの死傷者を出し、宝満城は落としたものの、立花山城は宗茂の奮戦により落とせず、また島津軍の消耗も激しく薩摩に撤退した。 紹運の死で大友家の筑前勢の脅威は払拭され、軍を立て直した島津家は天正14年(1586年)10月中旬に島津義弘(義珍)の3万が肥後路から、島津家久の1万が日向路からそれぞれ侵略を開始した。
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