第IIシリーズ(1913年-1914年)
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「レ・ソワレ・ドゥ・パリ」の記事における「第IIシリーズ(1913年-1914年)」の解説
第IIシリーズは事務所を移動し(278, boulevard Raspail,75014)、値段もそれまでの1刊あたり0.6ユーロから0.75ユーロに引き上げた。新たな雑誌の印刷はディミトリ・スネガロフ (Dimitri Snegaroff) の経営するユニオン印刷(フランス語版)が担当した。同社は戦後ギヨーム・アポリネールの仲介によって前衛美術、文学専門の印刷所へと経営展開する。原稿の編集長を務めたのがギヨーム・アポリネールであったのに対し、芸術編集を担当したのはセルジュ・フェラであった。彼の本名はSergueï Nikolaïévitch Jastrebzoffであったが、『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』ではJean Cérussという筆名を用いている。また彼の従妹、Hélène Oettingenは、セルジュとともに雑誌の財政面を支えたのだが、紙面ではRoch Greyという筆名で投稿している。 特徴 第IIシリーズは第Iシリーズと様々な点で異なっている。まず、第IIシリーズにはキュビスム画家たちの絵画作品の複製が多く掲載されている。なかでも第IIシリーズ初刊にあたる第18号を飾ったパブロ・ピカソのキュビスムのコンストラクションは、第Iシリーズから継続していた大半の定期購読者の購読取りやめを促した。 次に、執筆者も大きく変化している。第IIシリーズでは、第Iシリーズには認められないマックス・ジャコブ(Max Jacob)やブレーズ・サンドラール(Blaise Cendrars)の記事が掲載されるようになった。また計4号にわたって掲載されたモーリス・レイナル(フランス語版)の「映画コラム」(Chronique cinématographique, No. 19, No. 21, No. 24, No. 26&27)は、映画が一般的な娯楽とされるようになってから日の浅い当時としては、非常に斬新なものであった。第25号にはフェルナン・レジェ(Fernand Léger)が寄稿している。さらに、ギヨーム・アポリネール自身の詩作も急進的な方向へと向かっていた。象形文字にインスピレーションを受けた彼の最初の「詩的象形文字」あるいは「カリグラム」が初めて発表されたのは本誌第IIシリーズ後期であった(Nos. 24, 26&27)。 特別企画 第IIシリーズ発刊の間、二度特別企画が催されている。最初のものは雑誌第20号のアンリ・ルソー特集であり、ルソーに捧げられたギヨーム・アポリネールやルネ・ダリーズの記事のほか、ルソーの手紙、1908年11月14日に催された「ルソーに捧げる夕べ」のプログラムなどが掲載された。後者は第24号で告知されているアルベルト・サヴィニオの音楽会の開催である。これは1914年5月24日に雑誌事務所の部屋(278, boulevard Raspail,75014)で開催されている。後の記事によれば出席者の中にはアポリネールやセルジュ・フェラの他、ピカソ夫妻、ピカビア夫妻、モーリス・レイナル夫妻、マックス・ジャコブ、ジョルジュ・デ・キリコ、アルキペンコ、アレクサンドル・メルスローなど、いずれも今日では著名である文学、美術分野の人々が集った。
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